四脚門

二本の円柱の前後に四本の方角の控え柱を配した門の形式を四脚門という。屋根は切妻屋根で、瓦葺きや、杮葺きなど様々な種類がある。門の格式としては最も高い。(しきゃくもんともいう)

寄棟造

寄棟屋根を持つ建物の形式。寄棟屋根とは平面が長方形で、四隅に下棟を持つ屋根形状である。平面が正方形で四隅の下棟が一点に集中屋根形状は方形屋根という。

遣鉋

現代にみられる台鉋が出現する以前の古代の鉋。遣鉋は柄の先に槍先のような刃物を取り付けた鉋である。法隆寺の宮大工の西岡常一棟梁が再現して実際に使用している。遣鉋で削った後はまっすぐな平面ではなく、凹凸があり、近くでみるとわかりやすい。興福寺の中金堂の再建でも使用されている。

大和棟

「大和棟」は、大正期以降、今和次郎などの民族学者により唱えられた名称であって、昔からの呼び名ではない。それまでは「高塀造」と書き「たかへ・づくり」と呼ばれていた。関西では「塀」のことを「へい」ではなく「へえ」と発音するので、正しくは「たかへえ・づくり」とルビを打つべきかもしれない。
奈良県・大阪府・京都府南部における、自作農以上を象徴する屋根形式の一典型であり、富裕農家であることの証拠ともいえる。そもそも、奈良や大阪は、幕府直轄の「天領」が多く、基本的に税が他の「領国地」に比べ低かったため、自作農以上は裕福であったことが大きいともいわれる。
形態的にいえば、母屋部分を急勾配の切妻の茅葺とし、塗籠とした両妻に大屋根より高い瓦葺の小屋根の付いた袖壁(高塀/たかへえ)を建て、下屋部分は緩勾配の瓦葺としたものである。「大和棟」と総称されるものの中には、高塀部分が母屋の草葺(茅葺)屋根より少しく落ちた瓦葺とするものもあるが、それを「歪み高塀(ひずみたかへ)」と呼ぶこともある。
尚、京の町屋で、主屋から離し、街路に対して「高塀(たかべい)」を建てる「高塀造(たかべいづきり)」の形式があるが、まったく同じ文字であり、紛らわしいくもあり「大塀造(だいべいづくり)」とも呼ばれている。

薬医門

鎌倉時代末期か室町時代初期の、武家または公家の屋敷などに現れる門形式の一。「本柱」と「控柱」に荷重が分散され構造上の安定が得られるためか、或いは施工性に優れていたのか、後に城郭や社寺にも広く使われるようになる。棟の芯と、本柱の芯をずれているのが特徴で、妻側に回ってみれば、一見してそれとわかる。
本柱(角柱)と控柱(角或いは円柱)に、肘木である女梁(めうつばり)に下支えされた、腕木である男梁(おうつばり)を架け、その上に本柱とは芯をずらして板蟇股や束立てなどを乗せ、棟木を受けるところに特徴がある。(急峻で巨大な「板蟇股」を時折みかけることができる)規模の大小はさまざまで、高台寺表門のような、桃山時代の堂々たる例もある。
屋根は、一軒の切妻破風造の門がほとんどであるが、入母屋造の場合もある。また、切妻ではなく平唐門風の「唐薬医門」もある。
一説には、元は門扉がなく「病人の往来を妨げない」ことの表明として、医師の門に使われたとも言われる。しかし通常は、上六分を竪連子、下四分は横板とした両開き戸とするが、閂(かんぬき)は通さない。
門の格式としては、棟門・唐門・上土門より下で、平門・冠木門より上とされる。

母屋

「母屋(もや)」(奈良時代は「真屋(まや)」)と呼ばれる切妻屋根建物の中央部分の四周に「庇」空間が取り付いた形式のもので、屋根の接するところに段を設けたものを「錣葺屋根(しころぶきやね)」、
段を付けずに一流れとするものを「入母屋屋根」と呼ぶ。名前の通り、「母屋」部分が、「庇」に取り囲まれて「内に入った」という意味である。
焼失後にRC造で再建されたものであるが、四天王寺の「金堂」は「錣屋根」で、「入母屋屋根」より古い形式といわれる。また、奈良の建物は「寄棟造」が多く、「入母屋造」は少ないともいわれる。

持送り

社寺建築における「持送り」の典型的な例は、「東大寺二月堂」に見られる三段構えの豪壮なものである。他にも、「吉備津神社」の、船の姿を模したような、「縁」を受ける「持送り」も、象徴的であり一間の価値がある。