斗組(ますぐみ)のなかで、最下にあって「斗栱」全体を受ける最大の「斗」のこと。一般には、柱頂部または「台輪」や「皿斗(さらと)」を隔てて据えられる。「斗」の上方の「肘木」を含む部分またはその深さを「含み」と呼び、「斗」の下方、四方曲面に刳った部分を「斗繰(とぐり)」と呼ぶ。
大社造
神社の本殿形式のひとつで、切妻造で棟に2本の置千木(おきちぎ)と3本の堅魚木(かつおぎ)を置く。妻入りで、正面2間、側面2間の規模で、内部は一間分のみ壁で区切られ、神座は西を向く。素木造りで四周に高欄付きの縁がつく。島根県の出雲大社本殿や神魂(かもす)神社本殿が典型である。
大黒柱
民家の平面の中央付近、特に土間と座敷境、土間の表側と裏手の境目にある太い柱。
袖切
厚みを持った「虹梁」を、「柱」に取り付く付近を斜めに切り取って納めるが、その部分のことを「袖切」と呼ぶ。そして、「柱」に取り付く付近の上方の孤形をなす出張った部分のことを「鯖尻(さばじり)」、下端に刳った一乃至数条の平行曲線のことを「眉」と呼ぶ。また、底の部分に彫られた錫杖形の装飾を「錫杖彫」と呼ぶ。
礎石
建物の柱の下に据える石。柱の根元が腐るのを防ぎ、上の荷重によって柱が地面の中に沈下することを止める。また、柱にかかる力を地面に伝える役目をもつ。
相輪
三重塔、五重塔などの仏塔の最上層屋根の頂部に立つもので、下から露盤・伏鉢(覆鉢)・請花・九輪・水煙・竜車(竜舎)・宝珠から成る。心柱の上に鉛筆のキャップのようにかぶさっており、青銅または鉄で作られる。インドにおいて遺骨を埋葬した火葬墓「ストゥーパ」を象徴しているとされる。
草庵
「茶」は、奈良時代後期ごろ、「磚茶(せんちゃ)」(磚とは瓦のこと)と称して、茶葉を固めたものを削って喫していた。後世、鎌倉時代に栄西禅師が、南宋から茶の種を持ち帰り、高山寺の明恵上人が茶畑を作ったのが始まりといわれている。喫茶の流行は、その後、単なる茶会から、佐々木道誉などの発案による「闘茶(とうちゃ)」や「淋汗(りんかん)の茶」といった、派手で贅沢な催しとなり、庶民の間には、そのような茶会に反発する人たちも出てくる。南都の僧村田珠光もその一人で「茶数寄(侘茶)」を主張し、その工夫に努め「茶の湯の開山」と仰がれている。彼の考えは、堺の町衆であった武野紹鴎を経て、千利休(宗易)により、禅の精神を取り入れた簡素静寂を本体とする「侘びの茶の湯」として大成を見ることとなる。「珠光の道を得、紹鴎の術を得た」と利休は先人を称えている。因みに、「茶道」は「さどう」と読むことが一般的ではあるが、正しくは「ちゃどう」である。
「草庵風茶室」の基本は、「四畳半」であり、それ以下の広さのものを「小間(小座敷・囲い・数寄屋)」と呼び、それと一対として建てられた「書院」の座敷のことを「広間」と呼ぶ。茶会においては、「広間」と「小間」は相互に補完し合っているともいえる関係にあることは、押さえておく必要がある。
「四畳半」の発生に定説はなく、かつて東山殿東求堂内の「同仁斎」とする説もあったが、現在は否定されている。「書院造」の十八畳の一室の四分の一、すなわち「四畳半の囲い」での茶会に由来するともいわれている。
武野紹鴎の堺の「四畳半」は、北向きで「一間床」「簀子縁」が付き、北面のみ「明障子」を建て、他の面の採光はなかった。千利休由来の「四畳半」である裏千家の又隠(ゆういん)は「台目床(だいめどこ)」「二面採光」で「躙口(にじりぐち)」が付く。利休の理想としての侘茶では、求道性を尊び、客と亭主との親密(濃密)な空間を生み出す「小間」が多くなり、「三畳台目」「三畳中板」「二畳」「一畳台目」などの茶室を作っていった。
「草庵風茶室」は、格式を尊ぶ「書院」に対する、いわば「アンチテーゼ」である。「障壁画」などの装飾を否定し、中塗り止めの「苆壁(すさかべ)」などとし、「下地窓」を最小限に設け、必要以上の光を抑え、閉鎖的な囲いを、極限までに薄くした壁によって構築する。客の出入り口は、通常の板戸の半分ほど「躙口」とするのみならず、天井高も、錯覚を誘って広やかさを感じさせるよう、究極にまで低く抑えられている。当然のことながら、格式の象徴ともいうべき「内法長押」は省かれる。しかし、利休は、究極の「小間」であるにも関わらず、間口を縮めて隅柱を塗り込め消し去った「室床(むりどこ)」を残したことの深い作意に、我々は思いをはせる必要があるだろう。
利休は、茶会に意識が集中することを追求し「眼が移らぬように」新奇なところを削ぎ、立派に見えないよう工夫を凝らした。「異風になく、結構になく、さすがに手ぎわよく、目立たぬよう」という箴言が遺されている。
利休が秀吉によって死を賜ったのち、弟子である大名茶人の古田織部や織田有楽斎などは、「小さすぎる小間は客を苦しめる」として、「三畳台目」ほどの大きさの草庵に「相伴席(しょうばんせき)」を付した茶室を用い、さらに作意を加え、「下地窓」と「竹連子窓」を上下に重ねた「色紙窓」や「八窓」など多くの開口部を用いた茶室が作られる。
織部の弟子である小堀遠州は、それをさらに推し進め「綺麗さび」とも呼ばれる、ある意味「書院造」に回帰するような茶室を作る。遠州の作と伝わる「大徳寺龍光院書院密庵席(みったんせき)」は、「四畳半台目」で「小間」に近いが、歴とした「書院茶室」であり、「内法長押」が用いられている。利休が「小間」に凝縮した空間を、「広間」にも敷衍し、「書院造」にも取り入れられて「桂離宮」などの「数寄屋造」が生み出されるのである。
因みに、国宝指定の茶室は三席ある。千利休(宗易)
唯一の遺構と伝わる大山崎の「妙喜禅庵待庵(たいあん)」、織田有楽斎作である犬山市有楽苑の「如庵(じょあん)」の二席は「草庵風茶室」といえるが、前述の「密庵」は「書院茶室」である。現在、「密庵」は、厳格な非公開とされているが、遠州作の「弧篷庵・山雲床(さんうんじょう)」は、ほぼそれと同型であり、我々が目にする機会はある。
余談である。現在、日本には三つの「待庵」の名を冠する茶室が存在する。伝利休作の、四尺巾の「床」を付す「妙喜禅庵待庵」、次に、ある古記録(中村昌生博士は、おそらく誤記であろうとされていたが)を採り、「床」の巾を五尺に広げ、「床柱」をやや太めにした「大徳寺瑞峯院祖形待庵」(1990)、そして五尺巾の「床」、原形のL字形の「平天井」を床側のI字形に単純化し、「祖形待庵」よりさらに「床柱」を太くした「利晶の杜・さかい待庵」(2015)の三例である。読者諸氏には、機会があれば自らの美的感性に照らして、いずれが利休の審美眼に適うものかを、比較検討していただければと思う。相川浩博士の「比較建築論―利休とアルベルティの作意―」(中央公論美術出版・2003)に、そのことに関連する記述があるので、参照していただきたい。
禅宗様
鎌倉時代初めに「大仏様」が伝来して間もなく、禅宗が栄西(一般には「えいさい」、建仁寺では「ようさい」と読む)禅師らによって、南宋から伝えられたのと一緒に、まったく新しい建築様式が輸入された。これまでの主流であった「和様」とは、ほとんど全てにおいて異なる新規の様式であった。建築される堂宇は、比較的小規模のものが多く、細部は内外ともに繊細、技巧的、装飾的であり、日本人の好みに合ったのか、この「禅宗様」は、ずっと後世までも様式の純粋性が遵守される傾向が強い。
近藤豊は著書で「全体の姿も、和様を[低平穏和]と現わせば、禅宗様は[狭高繊細]とでもいえるだろう」と記している。
「禅宗様」の特徴を列記してみる。柱基部は、「粽柱」と呼ばれる、上下を曲面状に絞った円柱を「礎石」の上に置かれた「礎盤」上に建てる。肘木下部の曲線は、四分の一の円弧。水平材は、「頭貫」の上に「台輪」を据え、「大仏様」と同様に「貫構法」をとり、勿論「長押」は一切用いない。「尾垂木」の先端が細くなり、上面に「小返し」を施した「鎬」がつく。「中備」は、柱上の「斗栱組」と同様のものを二・三組配する「詰組」と呼ばれる形式をとる。「虹梁」に「海老虹梁」が使われ始め、「袖切」「眉」「錫杖彫」の装飾が施される。束は、この様式の典型的な特徴である「大塀束」で、下部に「結綿」と呼ばれる装飾がつく。垂木は、「二軒」の「角」で、重層建物のときは、上層を「扇垂木」下層を「隅扇垂木」とする。「木鼻」には、「拳鼻」「象鼻」などの装飾繰形を施す。床は張らず土間で、敷瓦の「四半敷(45度)」とし、仏事には布を敷く。天井は、中央部分が「鏡天井」で、その他は「化粧屋根裏」とする。出入口・窓には、この様式の意匠的特徴である、独特の曲線をもった「花頭窓」「花頭縁」を用いる。欄間は、「弓連子(波連子)」。建具が、框組で軽量化された「棧唐戸」を上下の「藁座」で吊る。「妻飾」は、「虹梁大塀束」の形式とる。彩色は、「三門(三解脱門)」上層内部には極彩色を施すが、他は小口のみ「胡粉」を塗り、原則、彩色をしない「素木」である。
現存する禅宗建築の最古の例は、海南市の善福院釈迦堂で、次に下関の功山寺仏殿があり、ともに鎌倉時代建立の国宝建築として貴重である。鎌倉の円覚寺舎利殿(神奈川県唯一の国宝)や東村山の正福寺地蔵堂(東京都2国宝の一)も古いが、時代が降り室町時代の建立といわれる。
余談であるが、多治見の栄保寺観音堂は、「詰組」のない「和様」の混在する特異な例として知られている。