勾欄

「山門」の上層の縁周りに設けられる「勾欄」のように、実用に供する高さのものもあるが、実用を離れて、意匠上から「勾欄」を設けて、建築をうまくまとめることが古くから行われた。(山口の「瑠璃光寺五重塔」のように、「勾欄」を設けずに成功した例もある。)
「組勾欄」は「刎勾欄」「桔勾欄」ともいい、隅または端の部分で、角水平材が互いに交わり、跳ねだして組まれている形式のものである。奈良時代ごろまでは、「架木・平桁」の端はいずれも「反り」がなく直線で、「木口」は適当なところで垂直に切り落とすのが一般の手法であるのが、平安時代以降は、跳ねだした先に「反り」及び「増し」の手法がとられるようになり、時代とともにそれが顕著となる傾向にある。
「擬宝珠勾欄」は、隅や端において、別に「親柱」を建て、その頂部に「擬宝珠(宝珠)」を持つ形式のものである。「組勾欄」と「擬宝珠勾欄」は、様式系統からいうと「和様」になるので、「和様勾欄」と称し「禅宗様勾欄」と区別する。平安時代末期と見られる日野の「法界寺阿弥陀堂」内のそれは、柱に「胴張」を持ち、首の細まったところの「欠首」の太さも程よく「擬宝珠」の形姿も秀逸である。
「禅宗様勾欄」は、装飾的要素が極めて強い。「親柱」の頂部の「逆蓮(ぎゃくれん・さかばす)」と呼ばれる蓮華彫刻や、「架木(ほこぎ)」の受けの「握蓮(にぎりばす)」と呼ばれる蓮葉彫刻、さらにS字形の曲線状に細工された「架木」端部の「蕨手(わらびて)」と呼ばれる彫刻などが施される。繊細な「禅宗様」のその他の部分と相まって、よく調和した装飾といえる。

向拝

日本の社寺建築は、古くはその平面が簡単なものであり、立面の正面・背面も同じような姿であった。ところが平安時代前期ころから、おそらく住宅系の住要求からか、神社建築の祭祀上の都合が影響したのか、神社本殿前方の、階段の上方の屋根が延びてくるものが現れる。これが「向拝」である。また、妻入りの社殿に本屋とは切り離されて屋根を設けたものを「差掛屋根」という。前者が「春日造(かすがづくり)」や「流造(ながれづくり)」と呼ぶ本殿形式となる。おそらく仏堂における「向拝」の採用は、その影響にあるものと考えられる。
「向拝」の形式は、韓国や中国には見られず、日本独自のものであるとされている。さらには「向拝」から発生する「手挟(たばさみ)」という装飾部材も日本しかないものである。
「和様」の主要な「柱」は「円柱」であるが、附属建造物である「向拝」の「向拝柱」は、「角柱」とし、いわゆる格を下げる配慮をする。また本屋の方は「繁垂木」とし、「向拝」を「疎垂木」とするのも同様の理由による。

間斗・間斗束

「和様」の建物において、両斗栱間(柱間)の「中備(なかぞなえ)」にあって、上部に「間斗(けんと)」という「斗」が付いた「束」のことを合わせて「間斗束(けんとづか)」と呼ぶ。
「間斗」とは、「両斗栱の間におく斗」の意味の名称で、形状的には「肘木」を一方向にのみ受ける「巻斗(まきと)」と同じ部材である。
奈良時代の「和様」の建物にあり、「中備」の主流であったが、斗栱間はかなり広くても「間斗束」を用いない例もあり、また醍醐寺薬師堂のように「蟇股」と併用することも多い。(外部が「間斗束」で内部が「蟇股」という例もある)
当初は構造材であったと思われるが、時代が降り意匠的役割が増し、鎌倉時代には、「束」の下方が開いた、ちょうど楽器の「撥」に似た形の「撥束(ばちづか)」が、そして室町時代には、上部に「蓑」のような形の唐草の繰型を付けた「蓑束(みのづか)」が生み出される。
日野の法界寺阿弥陀堂の内陣や興福寺北円堂のように、「間斗束」の左右に装飾絵画を施した遺例があり、後世における「禅宗様」の「笈形付大瓶束」に発展するともいわれている。