貫構法

飛鳥時代の仏教建築の渡来は、日本の長い原始の眠りからの目覚めであったが、その当時の建物は、「頭貫(かしらぬき)」や「飛貫(ひぬき)」と呼ばれる横架材は用いられてはいたが、横力をあまり考慮しない、「柱」だけで建つ構造であった。
平安時代に入り、横力に対する構造的な意識が芽生え、日本独自の「長押構法」が生み出され、今日「平安和様」とも称される建物が作られていった。しかし、仏教建築渡来後の500年間は、大陸の先進文化学ぶに急で、構造的には未消化のままの試行錯誤が繰り返されていたともいえる。
平安末期の平重衡(清盛の末子)による南都の焼き討ちは、我が国における建築史上最も大きな転機をもたらす。南都再建の際、「大仏様」「禅宗様」とともに導入された「貫構法」がそれである。初期のものは重源が勘案した「大仏様」で、浄土寺浄土堂や東大寺南大門が違例として見ることができる。縦横に「柱」を貫通して「通貫」を組み上げた力強い表現は、反面粗野とも映ったか、また貫通穴の欠損に対する不安があったのか、その後この形SH期は用いられなくなる。
栄西が南宋から持ち帰ったとされる「禅宗様」では、「貫」を構造材として意識しながらも、その意匠上の効果にも十分考慮して扱われていたので、「貫」で建物全体を固めるという考え方に発展し、「柱」は細くなり、「長押」を省くようになる。(中国・韓国には「長押」という横架材は、もともとない。)
「貫構法」の採用は、平安時代の「長押構法」と比較して、木材の使用量は大幅に削減できることが分かり、以後「和様」にも盛んに取り入れられるようになる。
「禅宗様」では、「隅柱」に「小根枘(こねほぞ)」と呼ばれる仕口に作った「貫」を「合欠き」にし、「枘穴(ほぞあな)」に挿して納めるが、それが外観意匠上の特徴となっている。
室町時代に入り、「和様」の流れにおいて「内法貫」は壁の中に塗り込められたり、「足固め貫」は床下に隠されたりするような工夫が加えられる。そして、外観は、細い「角柱」と細い化粧材としての「(付)長押」といった軽快な容姿を得、それが住宅風の「書院造」へとつながっていくのである。

多重塔

「多重塔」は、「三重塔」や「五重塔」に代表される。基本、平面は四角形(多角形もある)の空間を奇数数に重ねたものであり、その源流は中国の「楼閣」と考えられている。
「塔」の中心に「心柱」を据え、「四天柱」を配置し、頂部に「相輪」と呼ばれる「小塔」を取り付ける。「塔」の「心柱」は、法隆寺の五重塔では地中2mほどの「礎石」に置く「掘立て式」で、平安時代に入ると「礎石」を地表に置く「石場建て式」となる。鎌倉時代以降は、最上階から第二層までとすることが多くなり、木津の海住山寺の五重塔が最古の例である。江戸時代には「心柱」を上から吊り下げる「懸垂」の構造をとるものも登場する。
いずれにしても、「心柱」自体に荷重の掛からない構造となっていることがミソであるともいわれ、過去、落雷・火災・風災の他、地震によって倒壊した「塔」はないといわれている。
因みに、現存しないが、奈良の東大寺の「七重塔」は約100m、足利義満の相国寺の「七重塔」は約110m、そして白河上皇の法勝寺の「八角九重塔」は約250mとも伝わるが、その信憑性は低く、実際には約80mであったらしい。以上、三基とも焼失であるが、太平洋戦争の空襲で焼失後に再建された四天王寺の五重塔は、室戸台風で倒壊しており、唯一の風災の例であるらしい。(室生寺の五重塔のように、倒木による中破という例もある)
通常「塔」の造形は、上層になるにつれ軒の出幅や塔身が順に小さくなる。これを「逓減(ていげん)」といい、初層に対する最上層の幅の割合のことを「逓減率」という。「率0.5」では重厚な安定感のある姿となり、「率0.6~0.7」だとすらりと背が高く見え、「率0.7~」になると、やや重厚さの勝った、遠目には然程であるが近づくと圧迫感を感じさせる姿に映るようである。
「逓減率」の高い順に列記すると、法隆寺0.50、室生寺0.59、醍醐寺0.62、瑠璃光寺0.68、興福寺0.69、海住山寺0.74、東寺0.75となる。因みに、日本三大名塔は、法隆寺・醍醐寺・瑠璃光寺の五重塔である。
五重塔の「雛形(模型)」として造られた、国宝にも指定されている二基の「小塔」がある。「元興寺極楽坊五重小塔」と「海龍王寺五重小塔」であり、ともに一見の価値が高い。両者を見て特徴的なのは、その屋根勾配にあり、最上層までも極めて緩い勾配であり、古代の「塔」の姿がよく偲ばれる点にある。後世の修復により、徐々に「塔」の屋根が急勾配化していく理由は、見栄えというよりは、単純に雨仕舞上の問題であったのではないだろうか。
尚、「山地伽藍」における「多重塔」のスケール(縮尺)について触れておく。画像で見るだけでは判らないが、明らかに寺域・境内の広大さを錯覚させるように意図し、縮小したスケールで建てられている。(木材使用量の節約という穿った見方もあるが)要するに、人は、脳に刷り込まれた「塔」のスケール感(記憶)に置き換えて、そのものとの距離を感じてしまうのである。長谷寺の五重塔や清水寺の三重塔などは、まさにそうである。(実際には、大層小ぶりに造られている。)
また、室生寺の五重塔の場合は手が込んでいて、石段上に、軒裏に仕掛けられた、胡粉で塗られた「裏甲」のラインの重なりを見上げるように設定されていて、距離感の錯覚から、一見とても巨大な塔に感じるよう工夫してデザインされている。(何という「デザイン力」であろうかと驚き入る)石段をさらに昇った、塔を見下げる位置からの画像をみて、室生寺のそれとわかる人は、おそらく稀有であろう。(記憶のスケール感との違いに愕然とする筈である)
余談である。藤森照信著「日本木造遺産」で、山口の瑠璃光寺の五重塔(国宝・日本三大名塔の一)を称して「世界で一番『樹』に近い塔」と記されている。けだし名言というべきであろう。その秘密は、「勾欄」をもたないところにある。

浄土庭園

平安時代の中葉に「浄土(式)庭園」が発生する。その後、鎌倉時代の中葉の禅宗系の庭園が造られ始めるまでの間、この地泉形式が継続する。
「末法思想」について若干述べておく。伝教大師最澄は「末法燈明記」において、「末法」の元年となるまでの年数を記載し、その年が永承七年(1052)に当たるとされ、それが世に広まった。
因みに、仏教では「三時(さんじ)」という時代区分をする。釈迦入滅後の五百年は「正法(しょうぼう)」といい、正しい教え・正しい修行・そして悟りが得られる時代、次の一千年は「像法(ぞうぼう)」といい、(「像」は似ているという意味で)正しい教え・正しい修行はあるが悟りが得られない時代、そしてその後の五十六億七千万年後に弥勒如来が出現するまでを「末法(まっぽう)」といい、正しい教えだけあって、正しい修行も悟りもない時代となる、といった思想である。
私たちが現在想像することが到底不可能なほどに、人々の心理状態は切迫していたといわれる。藤原道長は鴨川の西岸に九体阿弥陀堂を池泉の西側に建てた法成寺(ほうしょうじ)を造立し、頼通は件の平等院鳳凰堂を建立し、その後も浄瑠璃寺・円城寺などと池泉を持つ「浄土(式)庭園」が多く造られていくのである。