堀口捨己

東大同窓生と結成した 分離派建築会 の構成員の一人。モダニズム建築の設計の傍ら、数寄屋建築の中に美を見出し、伝統文化とモダニズム建築の理念との統合を図る。日本の建築と庭園の関係を「空間構成」として捉え、「庭と空間構成の伝統」(神代雄一郎共著)を出版する。岐阜県生まれ。東京帝国大学建築学科卒。作品には、小出邸(江戸東京たてもの園に移築)、八勝館御幸の間、三朝温泉旅館後楽、明治大学和泉体育館ほか一連の建築、岩波茂雄邸、旧一条恵観山荘移築(現止観亭)、常滑陶芸研究所、かん居、大原山荘、如庵移築などがある。

清水英二

神戸市内に多くの作品を残した建築家。兵庫県生まれ、東京帝国大学工学部建築学科卒。ドイツ 表現主義 を始め、アールデコ・国際主義:ロシア 構成主義 など多彩な様式を折衷し、阪神間のモダニズムに彩を添えた。彼の理念には「小住宅対策提唱」があり、中産階級以下の良質な住宅提供の思いがあったといわれる。作品には、帝国信栄ビル、西尻池公会堂、神戸市立生糸検査所、高嶋平介邸(甲南漬資料館)、旧鳥羽小学校校舎、神戸市立御影公会堂などがある。

今井兼次

合理的・機能的なモダニズム建築からは距離を置き、建築に職人の手業を残す作品をつくった建築家。東京都生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒。母校の教職に就き長く務める。(教え子に池原義郎らがいる)帝国美術学院(現武蔵野美術大学)・多摩帝国美術学校(現多摩美術大学)の設立に関わる。また、A.ガウディの紹介者として草分け的な存在でもある。作品には、早稲田大学図書館(早稲田大学会津八一記念博物館)、旧 内藤多仲 邸(早稲田大学内藤多仲博士記念館)、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館)、旧日本中学校本館、碌山美術館本館、大多喜町役場、洗足男子カルメル会修院聖堂(カトリック上野毛教会)、日本二十六聖人殉教記念館などがある。

平松英彦

東京高輪生まれ。京都帝国大学工学部建築学科卒。武田五一 に師事。大林組の建築設計者として活躍、本店の外観意匠に携わるなど将来を嘱望されていたが34歳の若さで逝去した。作品は、旧大林組本社屋の外装意匠(辻学園調理技術専門学校から現仏料理店ポルドンシェル)が残る。

平林金吾

愛知県豊山町生まれ。平林家の養子となり東京に移住。東京高等工業学校(現東京工業大学)卒。高橋貞太郎 の勧めで内務省に入省。後に宮内省に移り、同僚だった岡本馨との連名で大阪府庁舎のコンペに応募し一等当選を果たす。尚、建築学会会館のコンペでも一等となるが、関東大震災の影響で建設が見送られている。作品には、大阪府庁舎、名古屋市役所本庁舎、朝鮮貯蓄銀行本店(現第一銀行第一支店)などがある。

石本喜久治

山田守 らと 分離派建築会 の構成員の一人。神戸市生まれ。東京帝国大学工学部建築学科卒。大阪の竹中工務店に入社。白木屋の設計を機に退社、後に石本建築事務所を設立。作品には、山口銀行東京支店、朝日新聞社東京本社、白木屋百貨店本店、銀座パレス、広島市民球場などがある。

山田守

逓信建築の先駆者の一人で、分離派建築会 の構成員でもある。関東大震災後の復興橋梁のデザインも手掛ける。滑らかな曲線への拘りにドイツ 表現主義 の影響が色濃く見られる。岐阜県羽島市生まれ。東京帝国大学建築学科卒後、逓信省入省。因みに、晩年の作品である京都タワーは、「東寺の塔よりも高いものは建てない」という不文律から、古都景観を乱すとの批判を受けたことで有名。作品には、旧文字郵便局電話課(現NTT門司電話通信レトロ館)、東京中央電信局(初期の傑作、現存せず)、永代橋・聖橋・萬代橋、旧千住郵便局電話事務室(現NTT東日本千住ビル)、旧広島逓信診療所(現広島逓信病院外来棟被爆資料館)、旧山田守自邸(現蔦サロン・珈琲店)、社会保険横浜中央病院、大和郡山市庁舎、東海大学代々木校舎・湘南キャンパスなど一連の建築、日本武道館、京都タワービルなどがある。

吉田鉄郎

逓信建築の先駆者の一人で多くのモダニズム建築を設計した建築家。著書の「日本の住宅」は、日本の伝統建築について、独・英語に訳された中で最も影響のあった出版物といわれる。その他「日本の建築」「日本の庭園」などがある。富山県生まれ。東京帝国大学建築学科卒後、逓信省に入省。(同時期に、山田守 がいる)初期はドイツ 表現主義 やエストベリ(ストックホルム市庁舎)など北欧建築の影響を受け、後にモダニズム建築の傑作を生む。因みに、来日したB.タウトを桂離宮などに案内したのは吉田鉄郎である。作品には、旧山田郵便局電話分室(現仏料理ボンヴィヴァン・アート ギャラリー 神楽サロン)、旧京都中央電話局(現新風館)、別府市公会堂、旧京都中央電話局上京分局(現フレスコ河原町丸太町店)、旧別府郵便局電話事務室(現別府市児童館)、旧馬場氏牛込邸(現最高裁判所長官公邸)などが現存し、B.タウトがモダニズム建築の傑作と称えた東京中央郵便局旧局舎はその一部が保存されているが、大阪中央郵便局旧局舎は2012年に解体されている。

吉田五十八

昭和期に活躍し、和風の意匠である「数寄屋建築」を独自に抽象化・近代化した建築家。東京生まれ。(父は太田胃散の創業者。吉田は母方の姓)東京美術大学(現東京芸術大学)卒。岡田信一郎 に師事。母校の教壇に立つ。吉田が独自に近代化した手法とは。主なものとして、大壁の採用、吊り束・欄間の省略、荒間障子・横桟障子の採用、引込み戸の発明、リシン吹付け壁・アルミパイプの下地窓などの工業製品の採用、座式と椅子座式生活の融合などが挙げられる。作品には、小林古径邸・画室、杵屋六左衛門邸、梅原龍三郎邸、日本芸術院会館、五島美術館、大和文華館、吉屋信子邸(現吉屋信子記念館)、吉田茂邸、ローマ日本文化館、太融寺正門、大阪ロイヤルホテル、成田新勝寺本堂、中宮寺本堂、岸信介邸、秩父宮邸、大阪ロイヤルホテル新館(現リーガロイヤルホテル・タワーウィング)などがある。

岩﨑平太郎

大正・昭和初期に奈良で活躍した建築家。奈良県吉野生まれ。吉野実業学校(現奈良県立吉野工業高等学校)木工科建築部卒。亀岡末吉・武田五一 に師事する。作品には、吉野駅舎、旧制畝傍中学校(現畝傍高等学校)校舎、旧佐保会館(奈良女子大学同窓会館)、天理外国語学校本館、天理教旧奈良教務支庁(天理教天御津分教会)、天理教敷島大教会、南都銀行の各支店などがある。