野口孫市

明治・大正期に活躍した建築家で、住友営繕の基礎を築いた人物。姫路市生まれ。東京帝国大学造形学科卒。欧州視察で、ロンドンの後期ヴィクトリア様式を学ぶ。作品には、大阪府立図書館(府立中之島図書館/増築部設計は 日高胖)、住友家須磨別邸、大阪心斎橋などがある。

中條精一郎

曽禰達蔵 と共に曽禰中條建築事務所を主宰する。山形県米沢市生まれ。東京帝国大学建築学科及びケンブリッジ大学卒。文部省辞職後、曽禰と東京丸の内に建築事務所を開設。昨比委には、札幌農学校(現北海道大学)昆虫及養蚕学教室・図書館、慶應義塾大学図書館(重文)・日吉キャンパス、旧日本郵船神戸支店ビル、小笠原伯爵邸、明治屋京橋ビル(東京)講談社ビル、岩崎家熱海別邸、三井住友銀行大阪中央店などがある。

山下啓次郎

明治・大正期の建築家。鹿児島市生まれ。東京帝国大学造家学科卒。伊東忠太 と同窓で、五大監獄を設計。ジャズピアニストの山下洋輔は孫。作品には、旧千葉監獄、旧長崎監獄、旧金沢監獄、旧鹿児島監獄、旧奈良監獄がある。

フランク・ロイド・ライト

米国の建築家。「近代建築三大巨匠」の一人。L.H.サリヴァンのもとで働いた後独立。初期の住宅建築は、既に独自の空間構成を示し「大草原様式」と呼ばれた。シカゴのロビー邸はその頂点であり、東京の旧帝国ホテルはそれの展開といわれる。ペンシルヴェニアの落水荘は、面の巧みな結合によってユニークな形態と空間を形作ったものとして有名。後期の作品には、ジョンソンワックス会社研究所、グッケンハイム美術館などがある。初期以来一貫して 有機的建築 を主張し、既存の建築様式によらない個性的で独自の足跡を残した。彼の下で働き、その系譜を継いだのが、遠藤新 である。

伊東忠太

日本最初の建築史家・建築評論の開拓者。米沢市生まれ。東京帝国大学造家学科卒。「法隆寺建築論」など、明治年間の建築思潮を大きく方向付ける数々の論文を発表。作
品は、橿原神宮(重文)、平安神宮(重文)、豊国廟、旧神宮司庁舎、真宗信徒生命保険(重文/伝道院)、東京商科大学(現一橋大学)兼松講堂、現明治神宮、楠妣庵、祇園閣、大倉集古館、築地本願寺(重文)、俳聖殿(重文)など100点を優に超える。

長野宇平治

辰野金吾 の弟子。明治後半・大正期の建築家。新潟県高田市生まれ。東京帝大造家学科卒。数々の銀行建築を手掛け、古典主義様式を極める。晩年は、神話の世界まで遡り、プレ・ヘレニック様式を再現する。1917年、日本建築士会初代会長に就任、建築士法制定に尽力した。作品には、日本銀行京都支店などがある。

遠藤於菟

日本における鉄筋コンクリート技術の先駆者の一人で、「日本のペレ(オーギュスト・ペレ)」とも称される建築家。長野県木曽町の生まれ。東京帝国大学造家学科卒。作品には、旧横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館/妻木頼黄 と連名)、三井物産横浜支店(本格的な事務所建築として日本最初のR造)、生糸検査所倉庫事務所(現北仲BRIC)などがある。

モイセイ河村伊蔵

愛知県南知多町生まれ。神田駿河台の正教会詠隊学校に学ぶ。正教会の聖職者で、明治・大正期に同協会の営繕を務める。河村には建築の心得は無かったが、東京大聖堂(ニコライ堂)や松室地毛密設計の京都ハリスト正教会の現場監理に派遣され建築を学ぶ。作品には、豊橋ハリスト正教会聖使徒福音記者マトフェイ聖堂(重文)、白河ハリスト正教会神女進堂聖堂、函館ハリスト正教会主の復活聖堂などがある。尚、息子の内井進(金城ハリスト正教会聖使徒イオアン聖堂の設計者)も建築家、また孫のガウリイル内井昭蔵も建築家であり、世田谷美術館、浦添市美術館、皇居・吹上御苑の新御所などの設計を手掛けた。

宗兵蔵

明治・大正期、関西の建築界の重鎮として活躍した建築家。プロポーションや細部意匠の取り扱いにすぐれ、折衷主義建築を得意とした。江戸生まれ。東京帝国大学造家学科卒。宮内省・海軍省・藤田組を経て、大阪に宗建築設計事務所を開設。作品には、帝国奈良博物館(現奈良国立博物館/実施設計・監理)柴島浄水場第一排水ポンプ場(現水道記念館)、難波橋(ナンニャバシ)、旧制灘中学校校舎、莫大小会館(現メリヤス会館)、生駒時計店(担当は 大倉三郎)、あべの翔学高等学校校舎などがある。

横河民輔

明治の建築家で、日本の鉄骨建築の先駆者。デザイナーというよりは、横河グループを創業した実業家である。明石市生まれ。工部大学校造家学科卒。作品には、帝国劇場、三越、東京銀行集会所、日本工業倶楽部などがある。