違棚
「違棚」の発生は、室町時代の中葉で、現存する最古のものは「東山殿(慈照寺)東求堂・同仁斎」の「付書院」に隣り合わせにつくられた「棚」である。江戸時代初期までのものは「地袋」を欠き「地板」を「押板」形式にして、畳面より高くしたものが多い。機能的には、茶の湯棚・書棚・文房具棚として用いられ、「文机(ふづくえ)」としての「付書院」とセットで設けられるのが常ではあったが、「床(押板)」とは必ずしも関係づけられてはいなかった。
この二段構えの「違棚」と、三段構えの「清楼棚(せいろうだな)」が「書院造」の「棚」の典型である。「清楼棚」は天王寺屋(津田)宗及(そうぎゅう)の作意になる「棚」であり「宗及棚」とも呼ぶ。
三枚の地板を組合せ、床側の下段棚の上端(天端)と、もう一方の下段棚の下端の高さを揃え、微妙な空間の流動性を演出している。(よく見ないと気づかないが)園城寺光浄院客殿のそれは正に秀逸である。余談ではあるが、「天袋」の四枚引き違いの建具の建付けが、本来は座敷側に対して中央二枚が手前であるはずが逆になっており、「錠」が掛かるようになっている。(左右の建具は「倹飩(けんどん)」になっており固定である。)その理由は定かではないが、「棚」の中に余程に格の高い何かが納まっているのかと考えさせられたりもする。
その他、「数寄屋造」の「違棚」、実に多種多様な様相を呈し発展をとげる。「(日本)三名棚」とは、桂離宮・新御殿の「桂棚」、修学院離宮・中御茶屋の「霞棚(かすみだな)」、そして醍醐寺・三宝院の「醍醐棚」であり、いずれもとみに有名である。
単層
歴史的建造物において、屋根の重なりがひとつであること。階数とは別で、建物が2階またはそれ以上の階数の場合もある。
多宝塔
「多宝塔」は、平安時代の密教系寺院において、「多宝如来(過去七仏の一。宝生如来とも)」と「釈迦如来(不空成就如来とも)」の二つの仏像を並べて安置した「塔」のことである。「真言密教(東密)」では、一層目が方形で、二層目が円形をした、一般的によく目にする形式をとるが、「天台密教(台密)」では、一・二層とも方形の形式をとり、その例も少ない。延暦寺の法華総持院東塔や、かつて住吉大社の神宮寺にあり、神仏分離後に阿波の切幡寺に移築されたものなどが遺る。
尚、規模を大きくし、二層目の円形部(台密では方形)を支える柱を、第一層まで伸ばした形式のものを、区別して「大塔(だいとう)」と呼ぶことがある。弘法大師(空海)が建立した高野山金剛峰寺大塔は、RC造の復元であるので、根来寺大塔(国宝)にその形式が遺る。
かつては、石山寺(大津)、金剛三昧院(高野山)、慈眼院(泉佐野)の三基が国宝であったが、現時点、浄土寺(尾道)、長保寺(海南)のそれが加わり五基となっている。
余談である。長保寺は、本来「天台宗」でありながら「真言密教(東密)形式」のものであるのは、建立された南北朝期、「真言宗」であったからといわれる。
仏堂や仏塔において、軒下一間通りに取り付けてある庇状の構造物のことを「裳階(もこし)」という。「裳層」とも書く。(「裳」とは、上代、女性や僧侶が腰から下にまとった衣のことで、原義的に解釈すれば「裳腰」から転じたのかもしれない)「多宝塔」の初層も「裳階」であり、建築形式は「一重・裳階付」である。
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神社建築など、主に向拝柱の内側に、屋根の垂木勾配に沿って入れられた、ほぼ三角形の化粧板のことで、彫刻物であることが多い。これによって向拝柱上の組物と垂木の隙間がなくなり、納まりが良くなる。
塔頭
大寺院の敷地内にある小寺院や別坊のことで、脇寺 (わきでら)ともいう 。禅宗寺院の独特な形態である。