軒唐破風

室町時代の大阪の神社建築には、「軒唐破風」を持ったものが何故か多い。「意賀美(おがみ)神社本殿」「錦織(にしごうり)神社本殿」「多治速比売(たじはやひめ)神社本殿」そして「観心寺訶梨帝母(かりていも)天堂」などがある。
「訶梨帝母天堂」を紹介しておく。現本殿は、天文18年の再建である。一間社春日造、檜皮葺で「前庇」正面の柱間を広くとったために、「軒唐破風」は、幅を狭め柱間内に納めている。「前庇」の柱上の「連三ツ斗」と連結し、虹梁上に配した「枠肘木」で「菖蒲桁」受けている。尚、この「枠肘木」には「手挟」を組み込んでいて、「前庇」の柱上組物と「母屋柱」は「海老虹梁」で連絡している。「前庇」の虹梁上に「蟇股」、その上方の桁上に「笈形付大瓶束」、そして「母屋」正面の「中備」の「蟇股」など彫刻装飾を集中して、正面性を強調している。
因みに、有名な、石上(いそのかみ)神社の摂社である「出雲健雄(いずもたけお)神社拝殿(国宝)」は、「軒唐破風」に似てはいるが、厳密にいって形式上そうではない。

根太天井

民家において、つし二階等の大引や根太に厚い床板を張って階下の天井としたもの。踏み天井とも呼ぶ。簀子天井は、竹を並べて編み、その上に蓆を敷いて粘土を載せたものをいう。屋根裏の防火上の工夫の一つとされる。

拭板敷

日本の建築は素木(しらき)が中心で、その仕上げの美しさは昔から日本人に好まれてきた。脱靴して、素足でその上を歩行し、足裏の感覚を鋭敏なものとしてきた。(脱靴をしない欧米の文化とは大きな違いがある。)木の表面を平らかなものとすることは、ことの外大切なこととされたと思われる。
古代では、一般に「手斧(ちょうな)はつり」のままのところが多いが、柱や床など見え掛かりに使われる造作材は、それに木の葉のような格好の「槍鉋(やりがんな)」で、労力を惜しまず、押したり引いたりして丁寧に仕上げている。「拭板敷」の「拭い」の称には、そんな工人たちの思いが込められているようにも感じられるのである。
「床」仕上げにつて若干述べておく。
奈良時代以前の仏堂では、基本的に、内部は「床」を張らず主に「石敷」で、敷き方は「布敷」であったようである。例外はあり、「法隆寺東院伝法堂」や「東大寺法華堂(三月堂)」は「拭板敷」である。「床」を張り、「縁」を付けることは、平安時代以降に流行する。
「床」を張らぬ形式と、高く「床」を張る形式の中間的なものとして、平安時代の「室生寺金堂」や「平等院鳳凰堂」の例がある。すなわち石壇上に建っているが、
内部に入ると木製の「床」があり、「拭板敷」となっている。「敷」としているように、「床」は極めて低く「石敷」の代わりに「転根太(ころばしねだ)」の上に「拭板」を敷いた程度のものである。
鎌倉時代に入ってきた「禅宗様」では、再び石壇上に建てて「床」を張らない形式を採用し、「敷瓦(甎/せん)」を「四半敷(しはんじき)」に敷く。すなわち鎌降時代以降では、「和様」は「拭板敷」、「禅宗様」は「四半敷」で、「大仏様」や「折衷様」では「床」を張っている。

仁王門

寺院の門形式の一。左に密迹金剛、右に那羅延金剛の二体の像を安置する三間一戸の門形式。屋根形式や屋根材料は一定せず、一重も二重もある。一重の際は八脚門となる。神社・廟の随身像を安置する随身門と類似する。

双堂

この「正堂(しょうどう)」と「礼堂(らいどう)」の「双堂」の形式が発展し、一つの大屋根に納められたのが、いわゆる「本堂」形式であると考えてよい。東大寺法華堂の場合は、大屋根を架ける技術がまだ未成熟であったのか、節約したためかは定かではない。
鎌倉以降、庶民のための新しい宗教である「浄土宗」・「浄土真宗」・「日蓮宗」などが勃興し、建物内に多くの人々が収容しなければならないという必然性から、礼拝空間である「外陣」の充実がはかられた。また「内陣」においても儀式の多様化に合わせて「内々陣」を設けるなど、時代と共に、平面構成がより複雑なものとなり、その規模も大きくなっていく。
その発展過程として、當麻寺の「曼荼羅堂」や、湖南の長寿寺・常楽寺・善水寺の「本堂」などに始まり、その後さまざまな例が数多く遺されていくことになる。

長押

「長が押し(ながおし)」の略。実は、中国・韓国には「長押」に相当する部材は無く、我が国独自に発達したものであるといわれる。
飛鳥奈良時代の木造建築の柱には、柱頭に落し込まれた「頭貫(かしらぬき)」と、中間に差し込まれた「飛貫(ひぬき)」、そして堂宇の出入り口にあって重い板扉を吊るための「楣(まぐさ)」「鼠走り」(後の長押に似た形状をもつ)と呼ばれる横木が用いられた。しかし、それらで構造上の横力を受けようという考えは無かったようである。
平安時代に入り、いわゆる「和様」が発達する中で、「楣」の発展形として、柱を両面から通しで挟み付け、大釘で打ち留め固定する横材の構造的有効性が着目される。いわゆる構造材としての「長押」の登場である。その角材の断面はことの他大きく、また「内法長押」「切目長押」「地覆長押」「腰長押」などとその部位数も増える。結果として、外観・内観において、水平線を基調とする「和様」の様式美がそこに生まれ、後世、特に「内法長押」を基準とする「木割」の技法が定着していくことになる。只、その木材の使用量の多さ、長材の必要であったことが、難点であったともいわれている。
平安時代末期の平重衡の南都焼き討ちは、日本建築史上の転換点を象徴する出来事であった。興福寺・東大寺近辺のほとんどの堂宇が焼失したのである。鎌倉時代に入り、藤原氏を檀那とする興福寺は時を待たず、これまでの「和様」で再建に着手するが、極端な木材不足に陥ることは目に見えていた。そこで官寺である東大寺においては、俊乗坊重源が「長押」を用いず木材の使用量を節約した、柱と「貫」だけの「大仏様」を採用することになる。鎌倉時代初期、栄西禅師により「禅宗様」がもたらされるが、それも「貫構法」を採ることから、構造上の横力を受け持つ横架材は、明らかに「長押」から「通貫」にとって代わることになる。
「和様」においても、徐々に「内法貫(うちのりぬき)」と呼ばれる材が併用され始まり、「内法長押」の角材の使用は姿を消し、L型、或いは薄い台形の断面を持つ化粧材、いわゆる実際上「付長押(つけなげし)」としか呼べないものとなる。鎌倉時代中葉からの「折衷様式」では、さらに「内法長押」「腰長押」の意匠そのものを省略化するようになっていく。
しかしながら、「長押」の意匠は、水平線を強調する「和様」の様式美を担う化粧材として長く生き残り、日本住宅の原型でもある「書院造」において、「格式」を決定しそれを象徴する要としての位置を守り通すこととなる。
因みに、「格式」を否定する「草庵茶室」では、勿論「長押」は取り除かれるが、その流れを汲む「数寄屋風書院」においては、半割の「丸太長押」や「面皮長押」を用いることもあるが、やはり「真の格式」を表す「長押の成」に拘る向きも多いようではある。
このように、柱間装置の一部としての「楣」に始まり、構造材としての「長押」に発展し、「貫構法」の登場を経て、化粧材としての「付長押」となりながらも「書院造」「数寄屋造」の要の部材として守られ続けてきた歴史的な流れを知っておいていただきたい。