寝殿造

平安時代の寺社の「和様化」が進む中、皇族など上流の住宅形式として生まれたものである。地位により規模・形式は異なるが、三位以上の敷地は、一町(121m×121m、4430坪)で、周囲に「築地塀」をめぐらし、東或いは西を正面として「四脚門(よつあしもん)」を開く。
正殿としての「寝殿」、その左右及び後方に、それぞれ「対の屋(たいのや)」や東西の「釣殿(つりどの)」を設け、「渡殿(わたどの)」と呼ばれる渡り廊下で結ぶ。「釣殿」と結ぶ廊下の中ほどに、出入り口のための「中門」を開くので「中門廊(ちゅうもんろう)」と呼ばれる。(「中門廊」は、後の「主殿造」にも名残として付される)
「寝殿」」は、拭板敷(ぬぐいいたじき)の「母屋」の周囲に、一間幅の「広庇(ひろびさし)」をつくり、その外に「簀子縁(落縁)」と「勾欄」をめぐらし「南階(なんかい)」を付す。いわゆる「母屋・庇」の構成で、内部の室は分節化されていない。要するに、建て増しては「渡殿」で結ぶ方式をとり、それぞれの建物は、平面機能上極めて単純なものであった。
屋根は、檜皮葺きの「入母屋造」、「広庇」の先の「角柱」以外は「円柱」で、建具は、跳ね上げの「蔀戸(しとみど)」「半蔀戸(はじとみど)」。架構的な特徴は、寺社のおける「和様」と同様に、構造的な用い方をされた「内法長押」や「切目長押」の採用である。特に、「内法長押」は、その後、水平線を基調とする「和様」のデザインとして継承されていく。また、室内は「化粧小屋裏」で天井は張られていなかった。
「寝殿造」の遺構は、勿論現存していないが、京都御所紫宸殿や宇治上神社拝殿などに、その形姿をとどめているとも言われている。

神宮寺

明治維新の神仏分離以前、日本の宗教観は神仏混淆の状態にあった。同一境内に、お寺では「鎮守社」を、神社では「神宮寺」が祀られていることが常態であった。渡来する宗教を、多くの人々は取捨選択することなく受け入れ続け、まもり育ててきたことは、世界的に見て極めてまれなことと言われる。但し、「耶蘇教(キリスト教)」に対してだけは、少しく微妙な距離感を保って付き合っているようにも見える。
余談である。倉本聰の脚本による「道」というテレビドラマがあった。甲府の片田舎の大晦日から元旦までの庶民の行事をつづったシーンがとても印象に残った。先ず、「お寺さん」で除夜の鐘をつき、その後「先祖のお墓参り」をし、「鎮守社」で初詣を済ませてから、家近くの「庚申堂」にお参りをするといった流れであったかと思う。「仏教」・「祖先崇拝」・「神道」・「庚申信仰(道教)」が、何ら違和感なく一体化しているのが、日本人の一般的な民衆の信仰心であり、彼らにとっての掛け替えのない文化であったことは、まぎれもない事実である。日本人にとって、「宗教心」と「信仰心」とは別物であるのかもしれない。
「神宮寺」の発祥の地は、一説によると「宇佐八幡宮」であると言われている。現在は廃寺となり跡地が遺るのみであるが、かつて壮大な「宇佐弥勒寺」と呼ばれる「神宮寺」が、飛鳥・奈良時代の昔から延々と、八幡宮境内に存在していたのである。「宇佐八幡宮」の正式名称は、「宇佐八幡宮弥勒寺」であったが、神仏分離後に廃寺となり、比較的早い段階で分離を終了した。しかし、楼閣のみは戦前まで残っていたそうである。
因みに、「石清水八幡宮」も元は「石清水八幡宮護国寺」であった。また「住吉大社」にも、かつては、東西二基の「大塔(多宝塔)」を持つ「神宮寺」があったが、神仏分離後、一基は破却され、残る一基は、徳島の「切幡寺」に移築され現存している。さらに、あまり知られていないだろうが、「伊勢神宮」にも「朝熊山金剛證寺」という歴とした「神宮寺」がある。
永い過去、連綿として続いた日本の宗教文化が、ある時代の、ある一部の集団の恣意的なミスリードがきっかけとなり歪められてしまったことに対して、遺憾に感じるのは、私だけではないだろうと信じたい。