書院造

「寝殿造」から「書院造」への移行には、長い時間の経過を要し、さまざまな形式上の模索があり、互いに影響し合いながら、「床同時並行的に進行していったものと思われる。以前は、「武家造」や「主殿造」と称されることが主流であったが、最近は、それらを含み、大きく「書院造」として一括りにする傾向にある。しかし、「禅宗塔頭方丈」の最古例である東福寺龍吟庵の「六つ間取」の構成は「主殿造」の特徴そのものであり、その方丈形式が、書院造発祥の建築ともいわれる足利義政の東山殿東求堂に大きな影響を与えていることも注目しておきたい。(敢えて一括りとする必要はないとも思える。)
「書院造」として確立された基本形は、建物を四分割し、最も奥まった室に「床(または押板)」「棚」「書院」「帳台構」を設け、室全体の床を上げ「上段の間」と称し、順次「次の間」「三の間」「四の間」と続け、さらに「上段の間」の「帳台構」の内部には、「帳台の間」(武者隠しとも呼ぶ)と「納戸」を設けるといった形式をとる。
「主殿造」と「書院造」では、対面形式に大きな変化があったといわれる。「主殿」は「六つ間取」で、南面中央の室において、客は「床」を背にして庭を見て座り、迎える側は、それと相対する。すなわち「対面の軸線」は、庭と「矩(直角)」であった。一方、近世になり、対面の場が拡大し、二三室に及び、また細かい格式も定められ、「対面の軸線」は、広縁・庭と平行するように変化する。これが「書院造」の基本形である。園城寺光浄院客殿は「主殿造」の典型例ともいわれるが、室の構成は「主殿造」ものではなく「書院造」そのものである。
床は、畳の敷き詰め、上段・下段の段差を設け、天井も格式によって「折上げ格天井」「格天井」「竿縁(猿頬)天井」などを使い分ける。外部建具は三本溝で「舞良戸」または「板戸」二枚と「明障子」となり、時代が降ると二本溝となり、「明障子」の引違いの外に、一本溝の「雨戸」を入れるようになる。このような建物を一単位として数棟建て、渡り廊下でつなぎ、また「玄関」や「遠侍(とおざむらい)」などを付す形式が「書院造」の基本形である。
室内空間の要(かなめ)となる構成要素は、「和様」の流れを汲む「内法長押」である。「内法長押」と「床柱」との三種類の納め方によって、「枕捌き(真)」「片捌き(行)」「雛留(草)」といった格式を表したりするようになる。
この長押より下の「襖障子」や「張付け壁」には「障壁画」が描かれ、間仕切壁を取り払い一体空間として用いることを想定し、欄間には「竹の節欄間」や「筬欄間(おさらんま)」を用い、空間の連続性を保つため「垂れ壁(天井小壁)」を用いないことが多い。
「禅宗塔頭方丈」などによく見られるが、天井の「廻縁」の下に「蟻壁(ありかべ)」という大壁仕様の細長い小壁を塗り回し「蟻壁長押」を設ける手法がとられるようになる。すなわち天井を浮かして見せる意匠的工夫で、天井の圧迫感を緩和する効果があるといわれている。(「折上げ格天井」などを用いる場合には登場しない。)
尚、江戸時代に入ると、二条城二の丸御殿や西本願寺の対面所(白書院)のように、「内法長押」の上の「小壁」にまで、障壁画を描き、さらに天井まで華麗に装飾するようになる。このような全体を包み込むような装飾形式を推進したのは、あの「弧篷庵」を建てた小堀遠州であるともいわれている。

須弥壇

上代の「須弥壇」としては、「薬師寺金堂」内の白大理石のものや、「唐招提寺金堂」内の花崗岩壇上積格狭間(こうざま)入りのもの、そして木造では「東大寺法華堂」内の八角二重のものがよく知られている。
平安時代以降、仏堂にも木造木張りの床が多くなり、「須弥壇」も木造のものが多くなる。「勾欄」をめぐらすことが始まり、「格狭間(こうざま)」に意匠を凝らすものが現れる。「平等院鳳凰堂」内のものや、「中尊寺金色院金色堂」内のそれらは、最も意匠と美を凝らした代表例である。
「禅宗様」の「須弥壇」は、上と下の框(かまち)部分の間に、とても複雑な曲面をもつ繰型を上下に繰り返すのが特徴であり、その間の狭い部分に「透彫」や「薄肉彫」の彫刻が施される。「勾欄」には、「逆連」「握蓮」「蕨手」といった「禅宗様」独特の装飾が加えられる。

主殿造

平安時代の「寝殿造」では、「寝殿」の他「対の屋」「釣殿」など、室の構成は「母屋・庇」を基本とする単純な建物を、広大な敷地に配置して、それらを「渡廊」でつなぐ形式をとった。一方、鎌倉時代に入り登場する「主殿造」では、大きな特徴として、建具や間仕切壁によって、一つの建物に、いろいろ用途(機能)をあてる「室」に細分化していったことがあげられる。
平安時代の末になると、「寝殿造」の住宅には、さまざまな変化が生じる。配置の左右対称性がくずれ、「対の屋」に代わって「小寝殿」(のちに「小御所」となる)また「寝殿」そのものが、儀式や年中行事が行われる「母屋・南庇」に対して、「北庇」に「北孫庇」が加わり、日常生活機能に対応しながら、北方がさらに複雑に変容していく。
「母屋」の北側の柱が、ほぼ省略され、「北庇・北孫庇」との境界が不明瞭となり、南半部は円柱と「和様」の古式を守るが、北半部は角柱に代わり「引違戸」が用いられ、もはや「母屋・庇」という伝統的な平面構成をもたなくなり、「寝殿」ではなく「主殿」と呼ばれるようになる。これらの背景には、平安時代の末期から起こってきた、結婚形態の変化や家督の相続形式の変化があったといわれている。
「主殿」の平面的特徴は、南半部を接客の場にあて、北半部を日常の住まいとしているところにあり、それに出入口の機能をもつ、「寝殿造」の名残の「中門廊(ちゅうもんろう)」を略式化した「中門」を付す。(「玄関」の名称はまだない)
「母屋・庇」からなる構造上の制約から脱し、「寝殿」では「化粧屋根裏」であったものに「竿縁天井」がはられ、必要に応じて角柱を建て、間仕切壁を設けたり、建具が建て込まれたりしていく。建具も「襖障子(衾障子)」「明り障子」「遣戸」が多く用いられ(いずれも引戸)「蔀戸・半蔀戸」「板扉」は、「主殿」の表に面した所に残すのみとなる。また、室内には部分的に畳が敷かれ、徐々に「敷き詰め」が一般化していく。さらに、「寝殿」では、室の「室礼(しつらい)」は調度・備品によってなされたが、「主殿」にあっては、それらが「作り付け」として整え始められる。すなわち、「押板(床)」や「付け書院」「違い棚」などが建築化され、「書院造」の形式の土台が出来上がっていくのである。
以上のような「主殿」を中心として、「台所」「厩(うまや)」「遠侍(とおざむらい)」などを配した、中世の武士の住宅様式を「主殿造」と称する。
「寝殿」が、さまざまな経緯から「主殿」に移行し、そこから「書院造」が確立していくのだが、「主殿造」にとって代わって「書院造」が登場するのではなく、それらは同時並列的に進行していったと理解した方が良いと思われる。「主殿造」の始まりは鎌倉時代に遡るが、現存するその典型といわれるものは、時代が降り、桃山時代の園城寺(三井寺)の光浄院・勧学院客殿であることが、そのことを如実に示している。
光浄院客殿に触れておく。「軒唐破風」のかかる車寄せの「簀子縁(すのこえん)」からあがる。内部を透かし見る「横連子」を見つつ左端の「妻戸」から入ると、内は「主殿(主屋)」から突き出した、拭板敷の「吹放ち」の場所で「中門」とも称する「中門廊」である。これに続く「広縁」や「落縁」、「中門廊」を支えて建つ独立柱や「出書院」の位置や深い軒の構成、さらには作庭に至るまでの卓越した空間造形力は、見事というより他に言葉がない。ほぼ「無柱」と感じるこの空間は、実に野屋根に巧妙に仕込まれた「桔木(はねぎ)」があってのことであり、まさに日本建築の粋ともいえる技法であるといえる。
室内は、各室とも畳の敷き詰めである。「鞘の間(さやのま)」、「次の間」、そして「上座の間(かみざのま)」には、二間幅の「押板(床)」と一間幅の「違い棚(清楼棚)」、矩の手右側に「帳台構(ちょうだいがまえ)」、左側の二畳の「上段の間」には、「押板(床)」と「付書院」を付す。(「出書院」ともいわれる)尚、それぞれ「押板」の当たりの壁は、「書院」の特徴である「張付け壁」を用いている。
確かに、この客殿は「主殿」と「中門廊」が絶妙に一体化した建物ではある。しかし築造が桃山時代であり、室内の構成は、「主殿」の対面形式のものではなく、対面の動線が庭に平行しており、「書院」の形式に進化していることを付け加えておく。

四半敷

「四半敷」のように四十五度に振らず、建物と平行に碁盤の目のように敷く場合は「碁盤敷(ごばんじき)」という。
方形または矩形の切石や敷瓦を使い、一方向は目地を通し、これと矩手方向の目地は交互に通したものを「布敷(ぬのじき)」という。「横布敷」と「縦布敷」がある。
禅宗寺院の「苑路(道筋)」において、よく見かける特殊な敷き方がある。方形の切石を「四半」に配し、矩形のものを間に挟んで交互に敷くやり方である。これのことを「いろこ敷」という。「いろこ」は訛りであって、「鱗敷(うろこじき)」が正しいとされる。
因みに、「敷瓦」の正式な漢字は「甎(せん)」であり、「塼」は通用漢字、「磚」は俗字であると漢和辞典に載っている。