数寄屋造

(すきやづくり)

室町時代後期から安土桃山時代は、戦国時代とも呼ばれ大名が群雄割拠し、その戦乱に伴う社寺の破壊と復興再建、さらには新規の城郭や城下町の建設などにより、全国的に空前の建築ブームが起きた。その需要に応える工人や大工の不足は相当に深刻であり、その養成と建築自体のシステム化が喫緊の課題となった。そこで、建築の架構から細部までを規格化し供給する手立てとして「規矩(木矩)」「木割」が系統的に整えられ、急速に世に広まっていった。和歌山の棟梁・平内(へいのうち)政信が著した「匠明(しょうめい)」は、現代でも本屋の書架にあり、購入することができる。
「規矩・木割」に則った建物とは、勿論、基本的に「書院造」であり、誰が作っても容易に格式による権威付けが出来てしまうという一面がある。その反面、画一的で面白みに欠け、意匠が硬直化していくことは避けられなかった。すでに「草庵風茶室」などを体験した人たちは、それに反発し、規格に縛られない、いわば「好き勝手」で作意に富んだ「数寄屋造」を次々と生み出していくのである。
建築史的には、「数寄屋風」の建物は、すでに室町時代の中頃から、その萌芽とみなされる資料も残されており、必ずしも「草庵風茶室」にその起源がある訳ではないともいわれている。ただ現在、確実に分かっていることは、千利休が秀吉の「聚楽第(じゅらくてい)」に建てた自邸に、「数寄屋造」と明らかに認められる「色付書院」があったことである。
「書院造」にも、「床柱」と「長押」の捌き方など「真」「行」「草」の格式の差をつけるが、それに更なる作意を加え、格式を意図的に崩した自由な表現を試みるのが「数寄屋造」である。
その各部位における差異を列記してみる。
「柱」は、「書院」の場合、基本桧の「柾目(まさめ)」を生地のまま用い、柱巾の十分の一の「面取柱」とするが、「数寄屋」の場合、杉などの「面皮柱」を多用し「板目」の景趣を楽しみ、また「古色塗装」を施したりする。
「座敷飾」は、「書院」の場合、欅板の厚い一枚板の「地板」で奥行は浅く、「落掛け」も桧の角材を用いるが、「数寄屋」の場合は、「畳床」で半間奥行とし、「落掛け」は丸太・黒柿など色の変わった材を用いる。
「床柱」は、「書院」の場合、角柱の柾目材を用いるが、「数寄屋」の場合、丸太柱が基本である。
「棚」は、「書院」の場合、単純な「違棚」或いは三枚構の「清楼棚」であるが、「数寄屋」の場合、さまざまに変化した複雑な形式のものが多い。「三名棚」とは、桂離宮の新御殿の「桂棚」、修学院離宮の中御茶屋の「霞棚」、そして醍醐寺三宝院の奥宸殿の「醍醐棚」であり、とみに有名である。
付書院」は、「書院」の場合、廊下に張り出した型通りの「付書院」で、「文机」の名残をとどめるが、「数寄屋」の場合、装飾以外の何物でもない「平書院」となる。
「壁」は、「書院」では、「内法長押」より下は「障壁画」で装飾された「張付け壁」であるが、「数寄屋」の場合、色のある土壁となる。
「釘隠」は、「書院」の場合「六葉(ろくよう)」が常であるが、「数寄屋」の場合は。まさに千差万別で、曼殊院の子書院の「富士の釘隠」は山に懸かる「七宝の雲」が一つ一つ違うといった懲り方である。
襖や杉戸の「引手」も、「書院」の場合、菊の御紋や葵紋などのバリエーションはあるものの型は決まっているが、「数寄屋」の場合、創意の結晶化ともいえる様相を呈する。桂離宮の新御殿にある襖の「月の字の引手」はよく知られている。
「長押」は、「書院」の場合、見付は厳密に「柾目」が守られる。前述した「床柱」と「長押」との「真」の捌き方(「枕捌き」と呼ぶ)では、床の裏側の小片を「留(とめ)」に納める拘りは、ある意味徹底しているともいえる。一方「数寄屋」は、基本「内法長押」は残すが「半長押」としたり、杉や桧のシボ丸太の「半割」を用いる。曼殊院の小書院の「長押」は、まず気付く人は少ないのだが、見附に意図して「板目」を見せ「古色」を施している。
凡そ、以上が「書院」と「数寄屋」との差異である。分かりやすいところもあれば、そんな些細な事といえるものもある。しかし、それらの創意工夫の総体が「数寄屋造」なのである。