長押

(なげし)
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「長が押し(ながおし)」の略。実は、中国・韓国には「長押」に相当する部材は無く、我が国独自に発達したものであるといわれる。
飛鳥奈良時代の木造建築の柱には、柱頭に落し込まれた「頭貫(かしらぬき)」と、中間に差し込まれた「飛貫(ひぬき)」、そして堂宇の出入り口にあって重い板扉を吊るための「(まぐさ)」「鼠走り」(後の長押に似た形状をもつ)と呼ばれる横木が用いられた。しかし、それらで構造上の横力を受けようという考えは無かったようである。
平安時代に入り、いわゆる「和様」が発達する中で、「楣」の発展形として、柱を両面から通しで挟み付け、大釘で打ち留め固定する横材の構造的有効性が着目される。いわゆる構造材としての「長押」の登場である。その角材の断面はことの他大きく、また「内法長押」「切目長押」「地覆長押」「腰長押」などとその部位数も増える。結果として、外観・内観において、水平線を基調とする「和様」の様式美がそこに生まれ、後世、特に「内法長押」を基準とする「木割」の技法が定着していくことになる。只、その木材の使用量の多さ、長材の必要であったことが、難点であったともいわれている。
平安時代末期の平重衡の南都焼き討ちは、日本建築史上の転換点を象徴する出来事であった。興福寺・東大寺近辺のほとんどの堂宇が焼失したのである。鎌倉時代に入り、藤原氏を檀那とする興福寺は時を待たず、これまでの「和様」で再建に着手するが、極端な木材不足に陥ることは目に見えていた。そこで官寺である東大寺においては、俊乗坊重源が「長押」を用いず木材の使用量を節約した、柱と「貫」だけの「大仏様」を採用することになる。鎌倉時代初期、栄西禅師により「禅宗様」がもたらされるが、それも「貫構法」を採ることから、構造上の横力を受け持つ横架材は、明らかに「長押」から「通貫」にとって代わることになる。
「和様」においても、徐々に「内法貫(うちのりぬき)」と呼ばれる材が併用され始まり、「内法長押」の角材の使用は姿を消し、L型、或いは薄い台形の断面を持つ化粧材、いわゆる実際上「付長押(つけなげし)」としか呼べないものとなる。鎌倉時代中葉からの「折衷様式」では、さらに「内法長押」「腰長押」の意匠そのものを省略化するようになっていく。
しかしながら、「長押」の意匠は、水平線を強調する「和様」の様式美を担う化粧材として長く生き残り、日本住宅の原型でもある「書院造」において、「格式」を決定しそれを象徴する要としての位置を守り通すこととなる。
因みに、「格式」を否定する「草庵茶室」では、勿論「長押」は取り除かれるが、その流れを汲む「数寄屋風書院」においては、半割の「丸太長押」や「面皮長押」を用いることもあるが、やはり「真の格式」を表す「長押の成」に拘る向きも多いようではある。
このように、柱間装置の一部としての「楣」に始まり、構造材としての「長押」に発展し、「貫構法」の登場を経て、化粧材としての「付長押」となりながらも「書院造」「数寄屋造」の要の部材として守られ続けてきた歴史的な流れを知っておいていただきたい。