大仏様

(だいぶつよう)
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鎌倉時代の初め、東大寺復興に際し、僧重源と宋人陳和卿が、中国福建省の建築様式と伝統的な「和様」をもとに考案した新しい建築様式である。
平安時代の末に、平重衡(清盛の末子)による南都焼き討ちがあり、興福寺は全焼、東大寺も三棟ばかりを残し焼失する。この両寺の復興が、鎌倉初期の建築界における一大事件となる。
復興に当たって、藤原氏が大檀那である興福寺は、平安以来の「和様」を順守した。(今も、その時の遺構として境内の南西に三重塔が残る)すなわち、構造体としての「長押」を多用した木材使用量のかさむ方式を採用し、近辺の木材は藤原氏によって押さえられてしまう。
一方、官寺である東大寺の復興は、材料入手に難渋を極め、私度僧であった俊乗坊重源に白羽の矢がたつ。彼は、各部材を規格化し、最小の材での大構築を可能とする、「長押」を使わない「貫構法」を考案する。「挿肘木」や天井を張らない「構造即意匠」の「化粧屋根裏」の採用は、当時画期的なことであった。
とはいえ、あまりの斬新な印象やその特異な表現、さらには柱の貫通穴の欠損の問題などがあり、重源の示寂とともに「大仏様」の建物はその後造られなくなる。しかし、「挿肘木」「通貫」の手法や「木鼻」の手法は、「和様」にも、また後に輸入される「禅宗様」の建物にも影響を与える。
「大仏様」の特徴を列記してみる。柱基部は、円柱を礎石の上に建てる「和様」と同様のもの。「肘木」は「挿肘木」で前後のみに挺出する。「長押」は用いず、貫孔を彫り「通貫」を多用する。「尾垂木」は柱頭部に組み込めないため「遊離尾垂木」とする。「軒支輪」はなし。「中備」は「遊離尾垂木」の支点となる蟇股風の材が入る。「虹梁」は、太い円形断面で、両端を細く絞り込んで納め、下部に「錫杖彫」を施す。束は、円形の「円束」。
垂木は、建物の出隅を「扇垂木」とする「隅扇垂木」で、垂木の小端に「鼻隠板」を打つ。「木鼻」は、独特のグリグリ繰型で彫刻は施さない。天井は、すべて「化粧屋根裏」。扉は、「棧唐戸」と似たものであったらしいが不明、だだし「藁座」は設ける。彩色は、内外部とも「丹」「黄土」「緑青」「胡粉」などを塗るが文様・絵画は施さない。
その遺構は極めて少なく、小野の浄土寺浄土堂と東大寺の南大門の二例のみである。