平安時代の「寝殿造」では、「寝殿」の他「対の屋」「釣殿」など、室の構成は「母屋・庇」を基本とする単純な建物を、広大な敷地に配置して、それらを「渡廊」でつなぐ形式をとった。一方、鎌倉時代に入り登場する「主殿造」では、大きな特徴として、建具や間仕切壁によって、一つの建物に、いろいろ用途(機能)をあてる「室」に細分化していったことがあげられる。
平安時代の末になると、「寝殿造」の住宅には、さまざまな変化が生じる。配置の左右対称性がくずれ、「対の屋」に代わって「小寝殿」(のちに「小御所」となる)また「寝殿」そのものが、儀式や年中行事が行われる「母屋・南庇」に対して、「北庇」に「北孫庇」が加わり、日常生活機能に対応しながら、北方がさらに複雑に変容していく。
「母屋」の北側の柱が、ほぼ省略され、「北庇・北孫庇」との境界が不明瞭となり、南半部は円柱と「和様」の古式を守るが、北半部は角柱に代わり「引違戸」が用いられ、もはや「母屋・庇」という伝統的な平面構成をもたなくなり、「寝殿」ではなく「主殿」と呼ばれるようになる。これらの背景には、平安時代の末期から起こってきた、結婚形態の変化や家督の相続形式の変化があったといわれている。
「主殿」の平面的特徴は、南半部を接客の場にあて、北半部を日常の住まいとしているところにあり、それに出入口の機能をもつ、「寝殿造」の名残の「中門廊(ちゅうもんろう)」を略式化した「中門」を付す。(「玄関」の名称はまだない)
「母屋・庇」からなる構造上の制約から脱し、「寝殿」では「化粧屋根裏」であったものに「竿縁天井」がはられ、必要に応じて角柱を建て、間仕切壁を設けたり、建具が建て込まれたりしていく。建具も「襖障子(衾障子)」「明り障子」「遣戸」が多く用いられ(いずれも引戸)「蔀戸・半蔀戸」「板扉」は、「主殿」の表に面した所に残すのみとなる。また、室内には部分的に畳が敷かれ、徐々に「敷き詰め」が一般化していく。さらに、「寝殿」では、室の「室礼(しつらい)」は調度・備品によってなされたが、「主殿」にあっては、それらが「作り付け」として整え始められる。すなわち、「押板(床)」や「付け書院」「違い棚」などが建築化され、「書院造」の形式の土台が出来上がっていくのである。
以上のような「主殿」を中心として、「台所」「厩(うまや)」「遠侍(とおざむらい)」などを配した、中世の武士の住宅様式を「主殿造」と称する。
「寝殿」が、さまざまな経緯から「主殿」に移行し、そこから「書院造」が確立していくのだが、「主殿造」にとって代わって「書院造」が登場するのではなく、それらは同時並列的に進行していったと理解した方が良いと思われる。「主殿造」の始まりは鎌倉時代に遡るが、現存するその典型といわれるものは、時代が降り、桃山時代の園城寺(三井寺)の光浄院・勧学院客殿であることが、そのことを如実に示している。
光浄院客殿に触れておく。「軒唐破風」のかかる車寄せの「簀子縁(すのこえん)」からあがる。内部を透かし見る「横連子」を見つつ左端の「妻戸」から入ると、内は「主殿(主屋)」から突き出した、拭板敷の「吹放ち」の場所で「中門」とも称する「中門廊」である。これに続く「広縁」や「落縁」、「中門廊」を支えて建つ独立柱や「出書院」の位置や深い軒の構成、さらには作庭に至るまでの卓越した空間造形力は、見事というより他に言葉がない。ほぼ「無柱」と感じるこの空間は、実に野屋根に巧妙に仕込まれた「桔木(はねぎ)」があってのことであり、まさに日本建築の粋ともいえる技法であるといえる。
室内は、各室とも畳の敷き詰めである。「鞘の間(さやのま)」、「次の間」、そして「上座の間(かみざのま)」には、二間幅の「押板(床)」と一間幅の「違い棚(清楼棚)」、矩の手右側に「帳台構(ちょうだいがまえ)」、左側の二畳の「上段の間」には、「押板(床)」と「付書院」を付す。(「出書院」ともいわれる)尚、それぞれ「押板」の当たりの壁は、「書院」の特徴である「張付け壁」を用いている。
確かに、この客殿は「主殿」と「中門廊」が絶妙に一体化した建物ではある。しかし築造が桃山時代であり、室内の構成は、「主殿」の対面形式のものではなく、対面の動線が庭に平行しており、「書院」の形式に進化していることを付け加えておく。
主殿造
(しゅでんづくり)
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