廣海家住宅
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廣海商店の歴史遺産
廣海商店の歴史遺産
棚にある箱に押されている「三⾓の下に 横棒」のマークは「鱗⼀」と呼ばれる廣海商店のロゴ。下段の透明ケース内は当時の帳簿。廣海家の経営の実態を知ることが できる7万6千点余りの古⽂書群は「廣海家⽂書」として⾙塚市の⽂化財に指定(市に寄託)。
「シモミセ」と出格子
「シモミセ」と出格子
「シモミセ」内部。廣海家は肥料商経営の傍ら岸和⽥煉⽡、⾙塚銀⾏などの地元産業の設⽴にも関わった。⼾棚の右側にあるのは、⾙塚銀⾏の看板。「シモミセ」の出格⼦は「ミセ」のより も格⼦が太く間隔が広い。
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東方向から見る主屋
西方向から見る主屋
大戸口付近
⼤⼾⼝を⼊り通り道(⼟間)へ
⼤⼾⼝を⼊り通り道(⼟間)へ
通り道を挟み、左⼿ (東側)の「シモミセ」と、主⼈が直接取引を⾏う右⼿ (⻄側)の「ミセ」で商いを⾏った。創業当初は廻船問屋として北陸・北海道産の⽶穀や⼲鰯を扱っていた。
「シモミセ」に架かる看板
「シモミセ」に架かる看板
1883年に海運業から撤退したが、戦前まで肥料商として多⽊製過燐酸肥料や硫安・⼤⾖粕などの各種肥料を販売した。廣海商店が多⽊製肥所の特約店であることを表す看板などが壁に架けられている。
廣海商店の歴史遺産
廣海商店の歴史遺産
棚にある箱に押されている「三⾓の下に 横棒」のマークは「鱗⼀」と呼ばれる廣海商店のロゴ。下段の透明ケース内は当時の帳簿。廣海家の経営の実態を知ることが できる7万6千点余りの古⽂書群は「廣海家⽂書」として⾙塚市の⽂化財に指定(市に寄託)。
「シモミセ」と出格子
「シモミセ」と出格子
「シモミセ」内部。廣海家は肥料商経営の傍ら岸和⽥煉⽡、⾙塚銀⾏などの地元産業の設⽴にも関わった。⼾棚の右側にあるのは、⾙塚銀⾏の看板。「シモミセ」の出格⼦は「ミセ」のより も格⼦が太く間隔が広い。
座敷部分
座敷部分
主屋⻄側は⽥の字形に8畳4室を配置。内部の広⼤さと各所に使われた部材/意匠の⾒事さに廣海家の廻船問屋・肥料商としての繁栄ぶりがうかがえる。商家の暮らしの中で使われてきた⼤量の美術品・書画・調度品・茶器などは、京都国⽴博物館に寄贈された。
縁側と庭
土間と五つの竃
土間の小屋組
土間 東側
土間の活用
⼟間上にステージを新設
⽂化の融合
敷地浜側の倉庫群(昭和初期に浜側から撮影)
敷地浜側の倉庫群(昭和初期に浜側から撮影)
かつて屋敷地は海岸線に接してお り、浜側には倉庫や蔵が建ち並んでいた。手前は感田神社の夏祭りで使われる太⿎台(ふとん太⿎)、左から2棟⽬の建物は「めがめ蔵」と呼ばれ、⾙塚浦に⼊港する廻船を監視 するための望遠鏡が置かれていた。右から2棟⽬の「新蔵」のみ現存。
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諸福天満宮
寛永20年(1643)にこの地に勧請され、菅原道真を祭神とする。古堤街道沿いにあり、社殿が建つ範囲の地盤は昭和に嵩上げされた。本殿と拝殿…
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松村家住宅(東豊中住宅地)
緑豊かな東豊中住宅地にあり、昭和10年(1935)建築家下村喜三郎が設計し自邸とした郊外住宅。主屋は木造2階建瓦葺で300坪の敷地の中央…
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名加家住宅主屋
江戸時代の木造平屋建(つし2階)住宅。名加家は「主屋」と「隠居室」の2件が登録文化財となっている。 名加家は貝塚の名産であるつげ櫛の卸…
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葛原家住宅(南葛原別邸)
(主屋)当時流行したコテージ風の文化住宅の好例である。平面は中廊下式で,玄関・階段・応接間等に分離派の意匠が見られる。2階に個性的な床棚…
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鴻池新田会所
鴻池新田は、豪商・鴻池家三代目の善右衛門宗利が広大な新開池の跡地を開発したもので、宝永2年(1705)に開発工事が開始され、大和川付替え…
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山本家住宅主屋
山本家住宅は聖徳太子の廟所叡福寺門前にあり、竹の内 街道に面して長大な間口を構える。主屋は間口10間半、 奥行き4間半の大規模な2階…
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