鎌倉時代に入ると、従来の「和様」に新来の「大仏様」「禅宗様」が加わり、三様式が並立する形となる。その流れにあって、意識的に三様式を混在させる「折衷様」の手法化が定まるまでには、相当な時間がかかる訳で、巧みなものは南北朝・室町時代になってからである。河内長野の観心寺金堂と加古川の鶴林寺本堂がその代表例といわれる。
それ以前の過渡期の例として、重源の跡を継ぎ東大寺勧進職を務めた栄西禅師の造った東大寺鐘楼がある。「大仏様」と「禅宗様」が混然とした、いわば様式の埒外にあり「折衷様」とは呼び難いが、とても豪壮な建物である。
「折衷様」自体に定まった様式の特徴がある訳ではない。どのように三様式が混在しているのかを、観心寺金堂を例にあげて列記しみる。柱基部には、面取り方柱を「礎石」の上の「礎盤」に乗せるという「禅宗様」である。柱上部の肘木下部の曲線は端部で垂直に切られた「和様」であるが、「中備」の二つ斗(双斗)そのものは「大仏様(禅宗様とも)」で、四分の一円の円弧である。(明らかに使い分けている)外部廻りは、「和様」の「切目長押」以外の「長押」をなくし、「禅宗様」の「内法貫」「藁座」「棧唐戸」を用いている。ただし両端の「連子窓」は「和様」である。垂木の「二軒」の「角繁垂木」も「和様」である。(付け加えるに、内部の内陣の厨子には「内法長押」が用いられているのが面白い)「通貫」や「挿肘木」は、「大仏様」の導入。内部の束の「大塀束」と「妻飾」の「虹梁大塀束」形式は「禅宗様」。「頭貫」の端部の「木鼻」も「禅宗様」であるが、やや彫が浅く彩色で線描されている。
凡そ、以上のようになるが、基本を「和様」に置き、構造的には「大仏様」を、そして意匠的な装飾部位には「禅宗様」を導入し、まとめ上げた「折衷様」であるといえる。
余談である。時代が降ると、三様式を意識的に使い分けることが少なくなり、混然とした作例が多くなっていく。もはや「折衷様」と呼ぶよりは「混淆様(一般用語ではない)」とでもいうべき様相を呈するに至る。
中でも、偏愛に近い引用例といえば「花頭窓」がひとつ挙げられるだろう。元は「禅宗様」であるが、宗派の違いのみならず、宗教建築以外のあらゆるところにも採用されていく。
後世、日本人は「わび・さび」を志向する精神性をもつ一方で、存外「装飾好き」な一面を合わせて持ち続けていくこととなる。
そのあたりの事情は「草庵」「数寄屋造」の項を参照のこと。
折衷様
(せっちゅうよう)
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