ペディメント

pediment。切妻屋根の三角破風、水平の コーニス と傾斜したレーキングコーニスとによって囲まれた三角形の切妻壁のこと。古典主義以外では「ゲイブル」と呼ぶ。

アティック

attic。屋根・上屋。一般に屋根裏部屋のこと。アティカとも呼ばれ、主要な エンタブレチュア の上部に設けられた中2階のような部分。

看板建築

大正12年(1923)の関東大震災後、焼け野原にはバラック(兵舎・仮設小屋の意)が建てられ、徐々に「バラック商店街」の様相を呈するようになる。なかには建築家(遠藤新・吉田五十八・レイモンド社・前田健二郎 など)によってデザインされた表情豊かなものも含まれていた。
その後、復興が進むなか、大通りは鉄筋コンクリート造のアールデコ風の商店が建てられたが、その周辺部の中小規模クラスの商店は、かつての伝統的町屋に代わる、洋風の ファサード を「取ってつけた」かのような外観を持つ、店舗併用の都市型住宅を造っていった。そのほとんどは木造で、建物の前面に衝立を置いたような看板を兼ねた外壁を持ち、自由な造形がなされている。「看板建築」という名称は、後の研究者が付けたもので、大正末期頃には「街路建築」という用語が使われていた。

帝冠様式

昭和初期において、ナショナリズム(民族主義・国家主義・国民主 義・国粋主義などと訳され、種々ニュアンスが異なる)の台頭を背景として、無国籍または国際的な近代主義建築に対抗して主張された様式のこと。構造は、鉄筋コンクリート造または鉄骨造で、これに伝統的な屋根を被せるのを最大の特色とする。
一般的には、ナショナリズムとファシズム(国粋的思想を背景とした全体主義)が高揚した1930~40年頃のもののみを指す。具体的作品としては、神奈川県庁舎(小尾嘉郎、1928)、名古屋市庁舎(平林金吾、1933)、京都市立美術館(前田健二郎、1933)、軍人会館(小野武雄、1934)、東京帝室博物館(渡辺仁、1937)などが挙げられる。語源は、1918年に実施された国会議事堂コンペ入選案を見た下田菊太郎が「意匠変更請願」を表明するとともに、自ら「帝冠併合式意匠」と称する提案を、作品図面を添えて発表したことに始まる。その後、和風建築のデザインの象徴的要素としての屋根を洋風ビルに組み合わせ、新しい様式を創り出そうとする傾向を総称する名称として用いられるようになった。

擬洋風建築

幕末から明治時代初期の我が国において、主として近世以来の技術を身に付けた大工棟梁によって「見よう見まね」で設計施工された建築を指す。従来の和様をベースとした建築に、西洋建築の特徴的意匠や、時には中華風の要素などを混合し、庶民に文明開化の息吹を伝えようとして各地で建設された。
明治維新以降、迎賓館や造幣局など主要な施設は、洋式建築としてお雇い外国人の手によって設計監理されたが、その他の官庁舎や地方の施設は、地域の大工棟梁らの手に委ねられた。国宝としては、大浦天主堂(長崎)、重要文化財としては、豊平館(北海道)、旧開智学校校舎(長野)、旧済生館本館(山形)などが挙げられる。また近年、登録有形文化財の登録の数が増えつつあることも付け加えておく。

有機的建築

organic architecture。建築物を自然の雄北のような統一体として構成しようとするとき、それを有機的建築と呼ぶ。だが有機的という語の意味は、それを使う人によってさまざまであるため、その概念も決して明確ではない。
自らの建築の方向をこの語で呼んだのはF.L.ライトであるが、H.v.d.ヴェルデやH.へーリング・L.H.サリヴァンにも同様の考え方が見られる。いずれにしても、自然の有機体における構造と機能と形態との関係を、人工的な建築のうちに実現しようとする姿勢であると言える。

国際様式

International style。インターナショナル様式。近代建築の多様な動向のうちで、個人や地域の特殊性を越えて、世界的に共通な様式へと向かっているもの。個々の建築家により、その主張や作風に幾分かの違いがあるが、1920年代から50年代頃までの近代建築の主流をなす合理主義的造形様式をいう。1925年W.グロピウスが バウハウス 叢書の一冊に「国際様式」を著し、早くもこの様式傾向を指摘し、その後H.R.ヒッチコックとP.ジョンソンがニューヨーク近代美術館での近代建築展に際し、「国際様式(1932)」なる書を著し、この言葉を定着させた。
ここで挙げる国際様式の特色とは、「装飾の排除」、「シンメトリーよりバランスの重視」、「量感より空間感覚で建築を捉えていくこと」の三点に要約される。その他の点では、建築家の個人差も、国や風土の違いからくる造形感覚の違いも否定するものではない。1930年代を過ぎると画一的な国際建築様式が多様化していく。しかし、国際様式が工業化時代の建築の主流を指していうなら、少なくとも1950年代までの建築まで含めてよい。代表作を挙げれば、W.グロピウスのシカゴ・トリビューン国際コンペ応募案(1922)、J.J.P.アウトのフック・ファン・ホランド集合住宅(1922)、ル・コルビュジェ のサヴォイ邸(1931)、A.アールトのパイミオのサナトリウム(1933)など戦前の作品、O.サーリネンのGM技術センター(1955)、ミースのレイク・ショア・ドライブアパート(1957)など第二次世界大戦後の作品が含まれている。

バウハウス

Bauhaus。1919年、独国のヴァイマルにW.グロピウス(1926、バウハウス校舎)を校長として創設された国立の造形学校。急進的な教育理念の故に、やがて右傾化する政情のなかで存続することができず、1924年末に解体、その後デッサウ市立バウハウス、ベルリンでの私立バウハウスを経て、1933年ナチスの圧力により最終的に解散した。
反アカデミズムの精神の上に立って、技術時代の造形を追求したものとして、デザイン運動の一つの頂点を形作ったものと評価されている。グラフィックデザイン及び家具デザインの分野にその成果が認められる。1937年にシカゴに創設された「ニューバウハウス」は、米国におけるバウハウス教育の継続を示すが、曲折の後1949年には「イリノイ工科大学」に併合された。

デ・ステイル

De Stijl。1917年、オランダのライデンでT.v.ドゥースブルグを中心として結成された造形運動で、同盟の機関誌を発行した。「ステイル」とは、オランダ語で「様式」を意味する。
運動には、P.モンドリアン、G.ヴァントンゲルロー、G.T.リートフェルト、J.J.P.アウトなど革新的な画家・彫刻家・建築家たちが次々に参加し、またG.セヴェリー二、E.M.リシツキ―、C.ブランクーシらもこのグループと接触を続けた。その造形傾向は、モンドリアンの「新造形主義」をもととして、明確な幾何学的な形態や空間を実現しようとするもので、その範囲は絵画から彫刻・建築・デザインへと広がった。この運動の唱導者ドゥースブルグは、1924年以来「要素主義」を主張して「新造形主義」を修正した。「バウハウス」への影響は勿論のこと、欧州の近代運動に与えた影響は極めて大きい。

分離派建築会

大正9年(1920)に東京帝国大学建築学科を卒業した6人が結成したグループで、その活動は日本で初めての近代建築運動とされる。彼らは自分たちの理想の建築像を、百貨店などでの展覧会と出版物によって、一般公開のかたちで主張した。標語は「我々は起つ」。
設立者は、石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、山田守、矢田茂。後に、山口文象、蔵田周忠、大内秀一郎が追加加入する。当時の東京帝大建築学科では、佐野利器 が中心となり、耐震構造など建築の工学面を強調、また5期上の 野田俊彦 が「建築非芸術論」を発表している。こうした工学偏重の動きに対して、分離派建築会は建築の芸術性を主張した。「分離派」の名称は、伊東忠太 の建築史講義で「ウィーン分離派」の話を聞き感激したことから名付けられたと言われる。