深江郷土資料館 別館(旧幸田家住宅)深江は摂津と河内の国境にあり、南には暗越奈良街道、南東へ十三峠越えの街道が分岐する交通の要衝であり、江戸時代にはお伊勢参りの道中安全を願って深江で菅笠を買い求める参拝者で賑わった。幸田家は江戸時代は庄屋を務め、明治時代以後も深江村の村政に関わっていた。旧幸田家住宅は売却され建て売り住宅が20余軒建設される予定であったが、増築部を… 鯛よし百番 鯛よし百番は、遊郭であった旧飛田新地に建つ料亭であり、最高級の遊郭建築を現在に伝える貴重なものである。木造2階建、入母屋造、桟瓦葺で、外部は2階に擬宝珠高欄を巡らし、道路の隅切り部分に設けた玄関には、唐破風 の屋根をつけている。内部は、中庭を囲んで部屋がつながり、遊郭独特の間取りである。それらの部屋は、日光東… 源ヶ橋温泉浴場 昭和12年(1937)に建てられた公衆浴場である。当初の5年間は、使用されなかったが、現所有者の父親が、借受けて創業された。建物は、木造2階建で建物の内外に昭和モダニズムの面影をのこしている。建物の上部には、ニューヨークの自由の女神像が一対ある。2階の広間は、ダンスホール、ビリヤード、大衆食堂などに使われたこ… 渡船場の景観 古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にあった。周囲を水に囲まれたこの地域では、木津川や尻無川の「渡し」が重要な交通機関であった。昭和10年(1935)には31か所の渡船場があったが、橋梁や道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災によってその多くを失… 浜街道の歴史的建造物群と南溟寺 紀州街道の海側に平行して通る通称「浜街道」は、江戸時代後期以降の各時代の町家建築が多く残され、歴史的街道として泉大津市の貴重な文化資産となっている。この地は南溟寺を中心とした寺内町として発展したものとみられる。浜街道周辺は泉大津市の毛布産業の発祥の地であり、江戸時代から漁業のかたわら真田紐を生産し、江戸時代後… 枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館 古くから枚方上之町で鋳物業を営み、江戸時代は河内国左右惣官鋳物師として河内の鋳物師を統率。昭和35年頃に廃業。主屋と鋳物工場を藤阪天神町に移築復原。元文4年(1739)の祈祷札がある主屋は桁行8間、梁間4間半、木造つし2階建切妻造。防火を兼ねて当初から本瓦葺であった点が近隣の民家と異なる。瓦葺という事もあり木… 廣海家住宅 廣海家は、天保6年(1835)貝塚寺内の有力町人明瀬家の娘ひろが、摂津国鳴尾の酒造家辰馬半右衛門家より養子を迎え、貝塚寺内の領主であった願泉寺卜半家から「廣海」の姓を授かり分家、米穀の諸色問屋(廻船問屋)業を開業したことに始る。戦前までは肥料商を営む一方、貝塚銀行などの設立にも関わり、地域の近代産業の発展に寄… 市立枚方宿鍵屋資料館 枚方宿にあり京街道と淀川の両方に接する。江戸時代には宿屋を営み、幕末頃になると淀川三十石船の「船待ちの宿」としても繁盛した。平成9年まで料理旅館を営み、平成11~13年に解体復原、。文化8年(1811)建築の主屋は、木造つし2階建切妻造桟瓦葺2棟で構成。西棟は桁行3間、東棟は桁行5間、梁間6間で正面に4枚の摺… 大正内港はしけ桟橋 戦災や高潮により甚大な被害を受け、昭和22年(1947)から大阪港復興計画の一環として、河川の拡幅浚渫による内港化と浚渫土砂による臨港低地区の全面盛土を実施する。昭和41年から鉄鋼や雑貨を扱う国内貿易基地として機能し、平成16年には年間取扱高は125万トンに達した。昭和43年から、はしけの係留場所の整備を進め… 久金属工業株式会社 大正4年(1915)浪速区桜川で、久庄次郎により創業した久金属工業は、医薬品・ウイスキー・ワイン・清酒などのガラス瓶のキャップや容器など、日常生活に欠かせない製品を製造する。昭和9年(1934)に西成区北津守の現在地へ移転。室戸台風などの自然災害や空襲を経ながらも、移転当初からの建物が群として残されており、事… 三大水門 昭和9年(1934)の室戸台風、昭和25年のジェーン台風、昭和36年の第二室戸台風などで、大阪は高潮による甚大な被害を被った。昭和42年「大阪港高潮対策恒久計画」を策定し、約60kmに及ぶ防潮堤、水門8基、防潮扉353基を整備する防潮対策を進めた。水門のうち3基は昭和45年完成の日本初のアーチ型の巨大な防潮水…