深江郷土資料館 別館(旧幸田家住宅)深江は摂津と河内の国境にあり、南には暗越奈良街道、南東へ十三峠越えの街道が分岐する交通の要衝であり、江戸時代にはお伊勢参りの道中安全を願って深江で菅笠を買い求める参拝者で賑わった。幸田家は江戸時代は庄屋を務め、明治時代以後も深江村の村政に関わっていた。旧幸田家住宅は売却され建て売り住宅が20余軒建設される予定であったが、増築部を… 麻田藩陣屋門(上西家住宅) 麻田藩陣屋の西門とされるが、陣屋絵図には西門がなく陣屋内の門あるいは家臣邸の門かと思われる。経緯は不詳だが麻田藩の医師であった当家に移築。江戸時代末期建築とみられ入母屋造で瓦当は家紋の州浜、両脇に二間四方の居室と、両開扉を釣込んだ両側に潜口を設け番所を張出した屋敷門の形式をもつ。右の間は内部に式台玄関を設け、… 麻田藩主邸表玄関(報恩寺) 麻田藩藩主屋敷の表玄関と伝えられ、3間通しの式台の内側に12畳の広間を設ける。正面には大虹梁をかけ、中央は家紋「富士に霞」の蟇股を備える。移築に際し一部柱間装置を変更したが、内法長押や襖金物は当初のままで、江戸時代後期の小大名屋敷の玄関遺構として貴重。書院も同時に移築された。当寺は天平年間に開創した金寺千坊の… 鯛よし百番 鯛よし百番は、遊郭であった旧飛田新地に建つ料亭であり、最高級の遊郭建築を現在に伝える貴重なものである。木造2階建、入母屋造、桟瓦葺で、外部は2階に擬宝珠高欄を巡らし、道路の隅切り部分に設けた玄関には、唐破風 の屋根をつけている。内部は、中庭を囲んで部屋がつながり、遊郭独特の間取りである。それらの部屋は、日光東… 針中野中野鍼 平安時代の延暦(782年~805年)の頃に設立された「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号で、平安時代から一子相伝を守り、現在に至る。弘法大師が布教の途上に宿を借り、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像」 (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されたと伝わる。大正時代に41代目が大阪… 特別史跡百済寺跡 8世紀中頃、百済王族の後裔、百済王(くだらのこにきし)敬福は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で採れた金を鍍金用として献上した功により、河内守に任ぜられ、一族は中宮の地に住み、氏寺として百済寺を建立したとされる。約140m四方の寺域に、主要堂塔である中門・金堂・講堂・食堂が南北に並び東西に塔を配置された… 片埜神社 欽明天皇の時代に「片野神社」の社号を賜った延喜式内社。平安時代後期には「一宮(いちのみや)」と改め、明治時代に社号を「片埜神社」に復する。兵火に罹り、荒廃と再建を繰り返したが、天正11年(1583)に秀吉が大坂城鬼門鎮護の社と定めて尊崇、修築した。慶長7年(1602)に秀頼が片桐且元を総奉行として本殿を再建。… 渡船場の景観 古来数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にあった。周囲を水に囲まれたこの地域では、木津川や尻無川の「渡し」が重要な交通機関であった。昭和10年(1935)には31か所の渡船場があったが、橋梁や道路施設の整備に伴って次第に廃止され、特に昭和20年には戦災によってその多くを失… 浜街道の歴史的建造物群と南溟寺 紀州街道の海側に平行して通る通称「浜街道」は、江戸時代後期以降の各時代の町家建築が多く残され、歴史的街道として泉大津市の貴重な文化資産となっている。この地は南溟寺を中心とした寺内町として発展したものとみられる。浜街道周辺は泉大津市の毛布産業の発祥の地であり、江戸時代から漁業のかたわら真田紐を生産し、江戸時代後… 池上曽根遺跡 和泉市池上町から泉大津市曽根町に広がる、南北1.5km、東西0.6km、総面積60万㎡もの規模をもつ弥生時代の遺跡。直径300mにおよぶ環濠により囲繞されていた。1995年に集落の中心部で弥生時代最大級の建物跡と井戸が発見された。1999年には大型掘立柱建物跡の近くで発掘された絵画土器を参考に、切妻屋根と独立… 枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館 古くから枚方上之町で鋳物業を営み、江戸時代は河内国左右惣官鋳物師として河内の鋳物師を統率。昭和35年頃に廃業。主屋と鋳物工場を藤阪天神町に移築復原。元文4年(1739)の祈祷札がある主屋は桁行8間、梁間4間半、木造つし2階建切妻造。防火を兼ねて当初から本瓦葺であった点が近隣の民家と異なる。瓦葺という事もあり木… 林昌寺「法林の庭」 行基開山とされる真言宗の古刹。創建当時から威容を誇っていた大伽藍は、織田信長南逆征討の折に焼失し、現在の諸堂宇は、江戸時代初期から中期にかけて建立されたものである。昭和36年、重森三玲作の「法林の庭」は、林昌寺が阪和西国第28番札所であるところから、和歌山産の青石28個で構成、中央には本尊石を置き、全体で極楽… 春日神社(津田) 創建年代不明の産土社。嘉吉2年(1442)春日四神を勧請、中世以降の宮座が残る。本社本殿は一間社春日造檜皮葺の春日大社旧本殿を移築した「春日移し」、末社若宮八幡宮本殿は三間社流造檜皮葺、春日大社末社三十八所神社本殿の「三十八所移し」。明和3年(1766)の式年造替で建立されたものを天明6年(1786)に移築。… 春日大社南郷目代今西氏屋敷 寿永2年(1183)に摂政藤原氏長者近衛基通が春日社へ寄進した荘園垂水西牧榎坂郷に、奈良の南郷から今西氏が目代(荘官)として下向。宝永8年(1711)建築の入母屋造平入の主屋を中心に土蔵・長屋門等が配され、延享3年(1746)に奈良春日若宮神社を遷した南郷春日神社本殿が残る荘官屋敷と今西家文書は中世荘園の歴史… 旧河澄家 河澄家は南北朝時代の日下連河澄与市大戸清正にまで遡り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り、日下村の庄屋を務めた。河内の文化人が集まる文芸サロンであり、地域の発展に貢献し、第15代当主は国文学者「上田秋成」と親交があり、第19代当主は小学校設立に私財を投じて尽力した。2001年に東大阪市指定文化財に指定され、復元整… 旧新田小学校校舎 国の義務教育政策が実現する中で建造された現存する府内最古の木造平屋建の校舎。明治33年(1900)建築の寄棟造桟瓦葺で、主屋から突き出た入母屋屋根の正面玄関には式台・虹梁・蟇股・「學」字の鬼瓦を備える。玄関を入り中央部に応接室と教員室、その両翼に土間を廊下として結ばれた教室が並ぶ。昭和48年まで小学校校舎とし… 日本民家集落博物館 日本民家集落博物館は、豊中市の服部緑地にあり、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する日本最初の野外博物館として昭和31年(1956年)に開館した。北は岩手・南部の曲家から南は鹿児島・奄美大島の高倉まで、懐かしい日本の風景を展示保存する。各民家は江戸時代の建築で、地方固有の風土・習慣から… 恩智神社 創建は雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国の守護のため祀られた神社で、平安時代は延喜式の名神大社に列する。社殿は当初、天王の森(現お旅所)に建立されていたが、建武年間(1334-1336年)に恩地左近が恩智城築城の折、恩智山上に奉遷、現在に至る。本殿の建築様式は、王子造(流造の一種)で極めて珍しい貴重… 廣海家住宅 廣海家は、天保6年(1835)貝塚寺内の有力町人明瀬家の娘ひろが、摂津国鳴尾の酒造家辰馬半右衛門家より養子を迎え、貝塚寺内の領主であった願泉寺卜半家から「廣海」の姓を授かり分家、米穀の諸色問屋(廻船問屋)業を開業したことに始る。戦前までは肥料商を営む一方、貝塚銀行などの設立にも関わり、地域の近代産業の発展に寄… Load More