深江郷土資料館 別館(旧幸田家住宅)深江は摂津と河内の国境にあり、南には暗越奈良街道、南東へ十三峠越えの街道が分岐する交通の要衝であり、江戸時代にはお伊勢参りの道中安全を願って深江で菅笠を買い求める参拝者で賑わった。幸田家は江戸時代は庄屋を務め、明治時代以後も深江村の村政に関わっていた。旧幸田家住宅は売却され建て売り住宅が20余軒建設される予定であったが、増築部を… 針中野中野鍼 平安時代の延暦(782年~805年)の頃に設立された「中野降天鍼療院(ナカノアマクダルハリヤ)」がその屋号で、平安時代から一子相伝を守り、現在に至る。弘法大師が布教の途上に宿を借り、当時最も進歩した鍼術とつぼを示す「遂穴偶像」 (大人と小人の丈1m弱の木像)と金針を授与されたと伝わる。大正時代に41代目が大阪… 貝塚寺内町まちや館(旧田中家住宅) 浄土真宗寺院である貝塚御坊願泉寺を中核とする貝塚寺内町にあり、願泉寺表門を通る街路に東面して建つ、木造2階建切妻造桟瓦葺の町家建築である。外観は1階表に出格子と平格子を備え、2階表に白漆喰の大壁造に虫籠窓と出格子窓をひらく伝統的な意匠としている。普請文書や棟札は残されていないが、税務関係書類によると明治35年… 石川家住宅 菅笠産地で知られる旧深江村にあり、深江稲荷神社門前の東部に位置する。石川家は、江戸時代には庄屋を務め、大正時代には村長、昭和4年に始まる深江地区土地区画整理事業では組合長に就任するなど、深江の村政を指導した。明治18年(1885)の明治大洪水で、古記録などの貴重な物品が失われたが、その後の復興において、元の屋… 田中家住宅 天野川西側の丘陵に建ち、江戸時代に村三役を務めた。明治20年建築の主屋は桁行10間半、梁間4間半の木造つし2階建入母屋造本瓦葺。木瓜型の虫籠窓・袖卯建・起り屋根など外観は極めて伝統的だが、八間取の平面構成や各部屋の意匠などに新しい試みもみられる。主屋を中心に、南側に長屋門・米蔵・離れが一体となり、北側に大型の… 深江郷土資料館 別館(旧幸田家住宅) 深江は摂津と河内の国境にあり、南には暗越奈良街道、南東へ十三峠越えの街道が分岐する交通の要衝であり、江戸時代にはお伊勢参りの道中安全を願って深江で菅笠を買い求める参拝者で賑わった。幸田家は江戸時代は庄屋を務め、明治時代以後も深江村の村政に関わっていた。旧幸田家住宅は売却され建て売り住宅が20余軒建設される予定… 浜街道の歴史的建造物群と南溟寺 紀州街道の海側に平行して通る通称「浜街道」は、江戸時代後期以降の各時代の町家建築が多く残され、歴史的街道として泉大津市の貴重な文化資産となっている。この地は南溟寺を中心とした寺内町として発展したものとみられる。浜街道周辺は泉大津市の毛布産業の発祥の地であり、江戸時代から漁業のかたわら真田紐を生産し、江戸時代後… 池上曽根遺跡 和泉市池上町から泉大津市曽根町に広がる、南北1.5km、東西0.6km、総面積60万㎡もの規模をもつ弥生時代の遺跡。直径300mにおよぶ環濠により囲繞されていた。1995年に集落の中心部で弥生時代最大級の建物跡と井戸が発見された。1999年には大型掘立柱建物跡の近くで発掘された絵画土器を参考に、切妻屋根と独立… 榎原家住宅 米作と畑作によって栄えた小曽根にあり、能勢街道・吹田街道の分岐点付近に立地する。天保年間(1830-44)の建替とされる主屋は敷地中央に南面し、木造つし2階入母屋造本瓦葺で下屋を廻らす。東端を広い土間とし、六間取の前列土間寄りに勘定場を張出して、巧緻な出格子窓を設ける。長屋門は阪神・淡路大震災で失われたが、土… 枚方市立旧田中家鋳物民俗資料館 古くから枚方上之町で鋳物業を営み、江戸時代は河内国左右惣官鋳物師として河内の鋳物師を統率。昭和35年頃に廃業。主屋と鋳物工場を藤阪天神町に移築復原。元文4年(1739)の祈祷札がある主屋は桁行8間、梁間4間半、木造つし2階建切妻造。防火を兼ねて当初から本瓦葺であった点が近隣の民家と異なる。瓦葺という事もあり木… 春日大社南郷目代今西氏屋敷 寿永2年(1183)に摂政藤原氏長者近衛基通が春日社へ寄進した荘園垂水西牧榎坂郷に、奈良の南郷から今西氏が目代(荘官)として下向。宝永8年(1711)建築の入母屋造平入の主屋を中心に土蔵・長屋門等が配され、延享3年(1746)に奈良春日若宮神社を遷した南郷春日神社本殿が残る荘官屋敷と今西家文書は中世荘園の歴史… 旧河澄家 河澄家は南北朝時代の日下連河澄与市大戸清正にまで遡り、江戸時代には代々作兵衛を名乗り、日下村の庄屋を務めた。河内の文化人が集まる文芸サロンであり、地域の発展に貢献し、第15代当主は国文学者「上田秋成」と親交があり、第19代当主は小学校設立に私財を投じて尽力した。2001年に東大阪市指定文化財に指定され、復元整… 旧梶谷家住宅 旧梶谷家住宅は、滝畑ダムの建設に伴い、元々滝畑の清水地区に建っていたのを昭和57年に当センターへ移築されたもので、桁行8間、梁間5間の入母屋造りの茅葺民家。山間部に位置する滝畑地区の民家は、カドグチ(玄関)が家の妻側にある全国でも珍しい「妻入横割型」が特徴。谷間の狭い限られた敷地に合わせたつくりになっており、… 旧中西家住宅(吹田吉志部文人墨客迎賓館) 江戸時代の学者廣瀬旭荘が「其宅華麗 殆類侯居(華麗で諸侯が住まう家のようだ)」と讃えた旧中西家住宅は、文化財を吹田市のために役立てたいという中西家の御厚志により、平成19年(2007)に吹田市に寄贈されたものです。約1,000坪の屋敷地には江戸時代後期の大庄屋の屋敷構えを今日に伝える文政9年(1826)建築の… 日本民家集落博物館 日本民家集落博物館は、豊中市の服部緑地にあり、日本各地の代表的な民家を移築復元し、関連民具と合わせて展示する日本最初の野外博物館として昭和31年(1956年)に開館した。北は岩手・南部の曲家から南は鹿児島・奄美大島の高倉まで、懐かしい日本の風景を展示保存する。各民家は江戸時代の建築で、地方固有の風土・習慣から… 廣海家住宅 廣海家は、天保6年(1835)貝塚寺内の有力町人明瀬家の娘ひろが、摂津国鳴尾の酒造家辰馬半右衛門家より養子を迎え、貝塚寺内の領主であった願泉寺卜半家から「廣海」の姓を授かり分家、米穀の諸色問屋(廻船問屋)業を開業したことに始る。戦前までは肥料商を営む一方、貝塚銀行などの設立にも関わり、地域の近代産業の発展に寄… 山本家住宅 17世紀中頃に建てられたと考えられ、全国的にも古い民家である。先進的な四間取の原型をよく残し、屋根は入母屋茅葺で平入、規模は東西方向桁行7間、南北方向梁間2間に縁がつく。内部は折半して、上手半分を居室、下手半分を土間としている。居室は田の字形の整形四間取で、表の下手にクチノマ、上手にザシキ、裏形の下手にダイド… 八木市造邸 1930 年(昭和 5 年)竣工。建築家・藤井厚二設計、大工・酒徳金之助により建てられた木造瓦葺 2 階建住宅。大阪で綿花・綿糸・絹織物業を商売とした八木市造と家族の為に建てられた注文住宅である。内外は、竣工時よりほとんど変わらぬ姿を保ち、現存する藤井設計の住宅の中でも特にオリジナルの家具や調度品が多く残る。… 上田家住宅 昭和8年(1933)に住宅地として開発された東豊中住宅地に位置する。昭和8年建築の主屋は木造平屋建切妻造桟瓦葺、東面する玄関脇に洋風室内の応接間を配し、西側の居室部は中廊下型で南面に縁を廻らす。昭和初期における和洋併置式郊外住宅の一典型を示す。住宅地を眺望する離れは昭和15年建築で木造2階建入母屋造桟瓦葺、下…